フィギュアスケート

スポーツ写真が趣味だったころに、フィギュアスケートの会場にも何度か足を運んだ。
ナマで見るフィギュアの選手は、テレビで見るよりずっとアスリートだ。
テレビではまずあの会場の寒さが伝わらないと思う。空気がピンと張り詰めている。
テレビでは音楽しか聞こえないが、たぶん現場でもっとも印象的な音は、ジャンプした選手が着地するとき、会場に響き渡る、ものすごい音だろう。彼女らが逆らっている重力の強さを思い知らせる、腹の底に響く音だった。
ショートプログラム浅田真央に大差をつけてトップに立ったとき、金姸兒にとって戦う相手は自分ひとりになった。その精神的な重圧はそうとうなものになりえたはずだが、この19歳はそれを軽々と乗り越えてしまった。
浅田真央金姸兒という同じ19歳の若者のことを考えるとき、やはり、まわりの大人の成熟度の差について考えてしまう。
浅田真央のタラソワコーチは年に一二度来日するだけだったそうだ。もちろん、浅田真央本人に潤沢な資金があればもっとよいコーチを選んでいたに違いないだろうけれど、JOCとかスケート連盟とかの支援は金姸兒のそれに負けていなかったといえるのだろうか。
大人の問題は、とりもなおさず社会の問題であるわけだから、日本という国の社会が未熟だというべきなのかもしれない。
林眞理子が週刊文春のエッセーに国母選手の服装について書いていた。
彼女は国母選手の着こなしを見ても
「何とも思わなかった」
そうだ。
私としてはいちばん共感できる意見だ。
私も何とも思わなかった。
ちなみに、どういうわけかその後、新聞に続々発表された彼の美談についても何とも思わない。ただ、そういうことをするマスコミが醜いと思うだけだ。
私は国保選手の服装について何とも思わなかったが、他人の服装についてイライラして仕方がない人たちがもしJOCにいたとしても、そんなことで選手本人に謝罪会見までやらせることに疑問を感じなかったのだろうかと、そのことにはひどく違和感を覚えた。
これから国を代表して競技に臨もうとしている選手に、あんな謝罪会見をやらせるオリンピック委員会が他の国にあるだろうか。
上村愛子が4位に終わった翌朝の新聞に
「日本に帰ると元気がなくなる」
という記事があった。
関連団体のあいさつ回りに引きずり回されて練習が出来ないのだそうだ。
JOCには、各競技で戦う選手たちに対する敬意が感じられない。
各団体の役員(どうせ役人の天下り連中だろう)が、選手より上に立ってものをいっている。
本来、選手たちを支援するためにあるための団体が、自分たちの利益を最優先している。
そして、マスコミはそのお先棒を担ぎ、更に情けないことには、国民の幾分かはそれに同調している。
オリンピックに、出場する選手の個性ではなく、社会の実情が見えるということが、日本社会のどんづまりの閉塞感を物語っている。