‘格差社会’の正体

下流志向』を読んで「オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』を連想した」みたいなことを書いたが、アマゾンの『下流志向』の関連図書に『日本の弓術』が出ていてビックリした。案外みんなそう思うんだなぁとか。
以前、このブログで
「たぶん、日本人にとっては、‘フツーの日本人像’というのが空のどこかに浮かんでいて、自分がそれから少しでもはずれていると思うと不安で仕方なくなるようだ」
みたいなことを書いて、
「日本は‘格差社会’というより‘格差過敏社会’だと思う」
みたいなことを書いた。
内田樹の『下流志向』を読むと、そういう心理がどこから生まれてくるのかがよく分かる。
戦後日本の高度経済成長を支えた社会構造は、野口悠紀雄の『1940年体制』に分析し尽くされていると思う。
だから、あの本を読んだ後に内田樹を読めば、内田樹が書いているような精神構造は、野口悠紀雄が分析した社会構造が、まさに、育んだだろうということに思い至るはずだ。
1940年体制という戦時非常体制が、戦後も半世紀の長きにわたって破綻なく持続できたのも、近代工業化社会という、進んでいくべき具体的な目標があればこそだった。
しかし、社会が近代工業化を達成して、目の前の目標が見えなくなったとき、膨張していくことで保たれていた均衡が破れ、構造がメルトダウンしたのではないか。
日本人が‘フツー’に豊かになったとき、‘豊かさ’だった目標は、いつのまにか‘フツー’にすりかわってしまった。上を向いていた目は、いつしか横を向くようになった。だって、‘フツー’は上でも下でもない、横にしかないはずだから。
‘フツー’でありたいという渇望、そして、‘フツー‘じゃないと思われたくないという恐れ。これらがいかに厄介かは、まだここにないはずの‘豊かさ’と違い、‘フツー’は、すでにあるはずのものだということを考えれば分かる。すでにあるものを目標にすることはできない。だから、‘フツー’になろうと努力することはできない。できるのは、‘フツー’のほうを自分に引き寄せるための、「自分は‘フツー’だ」という概念の操作だけである。
‘豊かさ’も‘フツー’も、ともに幻想であるには違いないが、‘豊かさ’が努力を促す幸福な幻想だったのに対し、‘フツー’は、内田樹のいう「学びからの逃走」と「労働からの逃走」にしか向かわない、悪夢だったのではないかと思う。
格差社会’の正体とは、つまり、幻想としてしか存在しない‘フツー’を、現実にある‘格差’に置き換える、概念操作に過ぎなかったと私には思える。
自分が‘フツー’だと思いたいために学ばない。自分が‘フツー’だと思いたいために働かない。そして、‘フツー’を自分のほうに引き寄せるために、そこから少しでもはみ出るような、独創的な努力をする人たちをバッシングする。そこに感情的な呪詛が含まれるのはそのせいだと思う。
高遠菜穂子さんの事件が起きたとき、ショックを受けたと公言している人も多くいた。
映画「ぐるりのこと。」の橋口亮輔監督が
「日本人はいつからこうなったのか」
と書いている文章は以前にも引用したし、鴻上尚史
「日本人をやめたいという人が周囲に増えた」
的なニュアンスのことをSPA!の連載に書いていたのを憶えている。
最近では、たとえば、国母選手がちょっと制服を着崩しただけでバッシングされるのは、彼が‘フツー’に敬意を表さなかったからだと私には見える。それは、‘フツーであること’以外に価値を見出せなくなった連中(高度成長時代の残滓のような)の断末魔の呪詛なのだと私は思う。
以前紹介した大橋巨泉のコラムを憶えておいでだろうか。彼は、
石川遼が高校の授業に出ないのがけしからん」
と非難したのだった。
石川遼は、マスターズに出場するほどのプロゴルファーである。その彼がなぜ高校の授業に出席する必要がある?
ましてや、なぜそれを赤の他人にとやかく言われなきゃならない?
冗談にしか思えないが、これがもっともらしく聞こえる場合がありうるだろうかと考えてみれば、たしかに、私が高校生だった70年代ころは、「学生は学生らしく」とか、「授業は学生の本分だ」とかいわれたものだった気がする、昔すぎてわすれているけれど、確かにそんな時代があった。
「詰襟のホックをしめろ」とか、「髪の毛が耳にかかったらダメ」とか、「靴下にラインがあったら・・・」どうたらとか。
私の弟が高校生だったころ、真冬にコートも着ずにでかけようとするので、
「着ていけよ」と声をかけると、
着ていったら教師が「泣く」と苦笑いしていた。文字通り、朝礼で泣いて訴えた教師がいたらしい。寒くても制服だけで我慢しろと。そんな時代・・・。
考えてみれば、その教育のありようは、先ほどまで述べてきた、野口悠紀雄内田樹の分析に直結している。教育も含めて、社会構造全体が、単一の目標に向かって規格内におさまる生き方を人々に求めていた。
それが時代だから仕方がないというなら、賞金王争いをするプロゴルファーだろうが、オリンピックの代表選手だろうが、‘フツー’の前にひれ伏せという意見が、今という時代に、おそろしくバカに見えるのもまた仕方がないのではないか。
目標を見失って、横並びの‘フツー’のために足を引っ張り合い、学びから逃走し、労働から逃走して、独創的な人間には呪詛のことばを浴びせかける。それが‘格差社会’を叫ぶ人たちの正体ではないだろうか。
「しょうがねぇなぁ」という国母選手の意見がもっとも正鵠を射ていると私には思える。たぶん、「しょうがねぇ」時代を私たちは生きている。