森村泰昌 <なにものかへのレクイエム>

森村泰昌の作品を見ていると、わたしたちが、目で見る対象に対してどの程度自己を投影しているのか、つまり、他者はどの程度自己なのか、とか、または、自己のうちのどの程度までは意識して演じているものなのか、つまり、自己はどの程度他者なのか、とかいうあたりの、ふだんはあまり意識しない領域に焦点が当てられるせいか、なにか落ち着かない感じになる。
意識をくすぐられる感じで、それは肉体的な笑いにつながっていく。
今回の展示のなかで、わたしがいちばん気に入ったのは、写真を撮るアンディ・ウォーホールとそのモデル両方に扮した作品。
動画なのだけれど、ナムジュンパイクの時代からは大きく技術進歩していて、たぶん二枚の液晶なのだろうか、動画の掛け軸が二幅かけてあるという感じ。
その片方が、森村扮するウォーホールで、もう一方が、これまた森村扮するモデル。ウォーホールの方が全体に黒で統一された画面、モデルのほうは対照的に白で統一されているどちらもモノクローム
ウォーホールがモデルの写真を撮る、そのたぶん2〜3分のやりとりをウォーホールとモデル別々に再現しているだけなのだけれど、面白いのは、それを見る鑑賞者の立場。本来なら向き合っているはずのウォーホールとモデルの視線が正面に、つまり、鑑賞者に向かっているので、この作品の前に立つと、鑑賞者はモデルとウォーホールの両方の立場に同時に立たされる。しかし、目の前にその両者が現に存在しているわけだから、絶対にその両者ではありえない。つまり、彼らであると同時に彼らでない立場に立たされながら、写真を撮るときのあのなんともいえない変な空気を彼らと共有させられてしまう。
わたくし、しばらくその前でじっと見ていたのだけれど、しまいに笑ってしまったのである。ちょっとひんしゅくものだったか。
どんなにポーズが決まった美男美女のグラビアでも、その写真が撮られる瞬間の前後何秒間かは、撮る側と撮られる側の意識が無防備になるはずで、それを横に立って見ていられると、カメラマンもモデルもかなりやりづらいはずである。
この作品は、横に立つどころか、モデルとカメラマンの間に立ってその両方に対峙する形になっている。これはかなりむずむずする。
最新作<なにものかへのレクイエム>では、これまで名画のなかに入り込んできた森村が、20世紀のイメージを決定付けてきた、誰もが記憶しているような報道写真の中に入りこむ。レーニン、ゲバラ毛沢東マッカーサー昭和天皇三島由紀夫。実はこう列挙するだけで、これを読む人の頭の中に浮かぶイメージは、かなりな部分が共通のものではないだろうか。だからこそ、そのなかに森村が入り込むことに意味があるわけである。
刺激的なわけだけれど、それはメッセージが刺激的というよりも、それを刺激的と感じているあなたは何なの?という問いが、つねに鑑賞者に向けられているからなのだろう。
多くの芸術作品の場合、それを見て、美しいとか素晴らしいとか思う。だが、それを美しいと思っているあなたは何なの?という問いにまでは踏み込まない。絵も造形も多くの場合、そこに所与のものとして、‘ありもの’として存在していて、「それ、なぜ描いたの?」とか、「どうして作ったの?」と作者に問うことも、また、それを見るものに対して「なんで見てんの?」と問うことも、暗黙の了解として、ない。しかし、森村はそこの階層にまでおりていって芸術を問い直そうとしているとわたしには見える。そしてその問いが問いにとどまらず、名画に登場人物として入り込むという技法によって、高いレベルで作品に結実しているところがすごいところ。