傷ついた街 〜 レオ・ルビンファイン

knockeye2011-10-09

 レオ・ルビンファインの写真展。

 東京国立近代美術館(似たような名前がいっぱいあるけど‘MOMAT’と略称される、所在地は東京メトロ「竹橋」駅のそば)でやっているのだけれど、どういうわけか単独ではチケットを売っておらず、ほかの展覧会と抱き合わせになっている。私は、グェッリーノ・トラモンティ展もみるつもりだったのでそれでよかった。いずれせよ、むしろ安い料金設定になっている。これで常設展も見られるわけだから、ひどく控えめに開催中。
 はじめからそのつもりだったけれど、この写真展に関しては、図録を買って文章を読まなければならないだろうと思っていた。
 しかし、だからといって、この写真展が、写真のみでは成立しないのかというとそうではない。写真は写真の原理でそこにちゃんと存在している。

 ただ、その写真は、もどかしげに何かを語りたがっているように見える。そして、これらの写真を言葉の位相にずらして、何かを語ることも可能だが、そして、実際、これらの写真の撮影者である、ルビンファイン本人によって、これらの写真が撮られたいきさつが綴られてもいるのだが、その文章を読んでも、改めて感じるのは、これらのポートレートの決定的なとりかえしのつかなさ、刻印された時の証明として、それらは何度も取り上げられて、いろいろな言葉で上書きされるだろうが、どんな言葉もこれらのポートレートを解決しきれないことも、もはや明白なはずだ。
 それは、モナリザの謎とも、カポディモンテ美術館のアンテアの謎とも共通している。
 ‘あのほほえみは虫歯だろう’とか、‘あれは実は高級娼婦だろう’などといいつつ、それらの謎は、モデルの実像を置き去りにする。なぜなら、そうしたポートレートは、見る側と見られる側との、関係性を表す姿として像を結んでいるから、それを見る鑑賞者の介入によって、像そのものが変化するからだ。

 その場合、ポートレートは、イメージそのものであるよりも、イメージを喚起する契機としての意味合いが強いだろう。その違いについては、吉本隆明の口まねで、うっかり指示表出と自己表出とか言いたくなるが、それはやや危なっかしい。
 ただ、たしかに、ワールドトレードセンターが、乗っ取られた飛行機の突入で崩壊したすぐそばに居合わせた写真家として、そこで被災した人々、救命活動に当たった消防士たち、を撮影するという表現方法は、選択肢として、当然ありえたはずだった。
 しかし、ロバート・キャパの時代とは大きく時代を隔てた、今を生きる私たちは、そうした報道写真が、たとえ事実を切り取ったものだとしても、そこに入り込むウソについて、気づき始めている。
「・・・あの夜、私の妻はテレビを消してほしいと言った。刺激的な映像から子どもたちを守るためだけではない。彼女自身の記憶をも守りたかったのである。テレビの扇情的な表現や派手なテロップは、自分の目で見た出来事までつくり変えてしまう。・・・」
こうした感覚は、情報が氾濫する国に暮らしている住人には、共有できるのではないか。
 レオ・ルビンファインは、2002年から6年をかけて、無差別テロを経験した世界の街をめぐり、ストリート・スナップとしてバストショットのポートレートを撮り続ける。
 <「彼ら」と「私たち」>と題された、増田玲の文章には

 「彼ら」と「私たち」が画然と二分され、対話のかわりに暴力が発動する。「彼ら」と「私たち」の間で働くべき想像力が、恐怖や疑念や憎悪に置き換えられる。同時多発テロ以降、世界を急速に覆ったように見えた(そして彼自身もテロ事件に巻き込まれた当事者として、ともすればそれに同意しそうになった)、こうした構図こそが、ニューヨークで彼が目撃した事件そのもの以上に、ルビンファインにとって真に向かい合うべき大きな課題だったのではないだろうか。

・・・「彼らは何ものだったのか」、これは写真集『傷ついた街』のテキストの第3章に繰り返される言葉である。
(略)
「彼らとは何ものだったのか」、おそらくこの問いは決して明確な答えには行き当たらない。一方でそれは「彼ら」についてあまりにも無関心であった「私たち」を問い直す作業でもあった。

 これらのポートレートは、決して答えないことで、言葉に問う権利を与え続ける。結局、答えではなく、問いだけが「彼ら」と「私たち」の関係でありうる。この写真展は、狭くて遠い回り道だが、たしかにつながっている道であるように思う。
展覧会情報レオ・ルビンファイン 傷ついた街 展覧会情報レオ・ルビンファイン 傷ついた街