日曜日なのにお仕事。
別に景気回復というわけではないだろう。やりすぎたリストラの後始末をやっているだけである。まあ、切られなかっただけましか。
書きそびれたけど、きのうは、厚木の鮎祭りだったようで、豪勢な花火大会が、海老名の私鉄とJRの駅を結ぶ、長い陸橋の上からよく見えた。
帰省の新幹線を予約しにいったら、ちょうど始まったところだった。
ついでだから最後まで、と見ていたら、なかなか終わらない。関東の夏って(神奈川と東京は違うのかもしれないが)、関西とちがって日が落ちるとすっと涼しくなる。連日の暑さをにらんだ服装をしていたので、からだが冷えてしまった。陸橋の上だし、三時間もやってるし。
美術館を出たり入ったりを繰り返したのもこたえた。美術館は、作品の保護のために、かなり冷房がきついので。
長い前置きになったけど、昨日の世界報道写真展を見た目で日本を振り返るとという話をいくつか。
ひとつは、大前研一の「ニュースの視点」の最新エントリー。
2010年8月2日号のTIME誌のカバーストーリーは、「日本は上昇するのに苦労している」様子を風刺的に描いていました。
その主張は、なぜ日本という国は自らが変化することに対してそれほど抵抗するのか?という点にあります。キャメロン首相が主導する英国とは対照的に、何も動かず変化をしない日本の謎。
日本の将来に対する不安、それぞれの問題についても言及がありました。 昨年の日本の実質GDPは5.2%減っており、累積債務は対GDP比で193%にも達しています。
なぜ、こうした数字から見えるように将来の問題が明白になっているにも関わらず、日本は変化をしようとしないのか?
野口悠紀雄が指摘しているように、戦後の高度成長を支えた構造が、1941年体制という戦時経済体制だとしたら、高度経済成長そのものが、官僚の無策のおかげともいえる。
官僚のできることは、肥大化することだけ、変化はできない。偏差値教育という、ある種の‘結界’のなかでしか通用しない限定的なエリートの限界だろう。
猪瀬直樹の「眼からウロコ」の‘高速無料化実験と全線無料化は別ものだ’の一章、
‘2011年度予算の概算要求基準は前提からしておかしい’
に、「日本の一般会計における歳出・歳入の状況」というグラフが掲載されている。
こうしてビジュアルで見せられると、直感的にわかる。
日本の一般会計歳出と一般会計税収は、バブル崩壊まで同じトレンドで上昇してきたが、バブル崩壊後、税収が減少、低迷するなかで、歳出は増加をつづけてきた。その結果、「ワニの口」と呼ばれるように、歳出と税収の乖離が進んだ。小泉政権で財政再建が行われ、国債発行額は20兆円台にまで下がった。しかし、いったん閉じかけた「ワニの口」も、リーマンショック後の財政出動傾向で一気に開いてしまった。
バブル崩壊後、もう効果がないとうすうす知りつつ、高度成長期と同じバラマキを続けた結果がこの「ワニの口」である。
「格差社会」の対義語は何か?
それは「バラマキ社会」である。
小泉構造改革のおかげで「格差社会」になったという意味不明なことをわめいていた連中は、つまり何がいいたかったのかといえば、「昔みたいにバラマイテくれ」ということに尽きる。
変化が必要なときにその変化に抵抗する連中は、そのことで結局自分の首を絞めていることが理解できない。何しろ、漢字も満足に読めないのだからそれもしかたないけど。
繰り返しになるが、官僚は、肥大化できるだけで、変化できない。
八ッ場ダムをみればよくわかるだろう。
いつの計画だったっけ?
それに連綿と税金をつぎ込んで、いささかの痛痒も感じない、それが官僚。
最後に、社長を新聞で公募し始めた企業の話。これは、テレビ東京のニュースで見た。
高度成長時代、社長とは‘あがり’のポジションにすぎなかった。経営の能力なんて必要なかった。上に伸びていけばいいだけ。肥大化すればよかっただけで、どこかに向かっていく方向性なんて誰も気にしなかった。
高度成長が終わって、ハッと気が付いたら、OJTで育成してきた従業員の中には、経営できる人間はひとりもいなかった。で、‘社長求む’の新聞広告。
国際教養大学について書いたときに、村上龍が言っていたことが現実になっている。
すくなくとも、石川遼にむかって、「高校の授業に出ないのはけしからん」とかいっている大橋巨泉のような発想は、この世から退場してもらわなければ困る。
マスターズに出場するより、高校の授業に出るほうが大事というような考え方の人が、国母の服装を批判したり、小泉純一郎をポピュリスト呼ばわりしたりする。
今の日本は‘ゆでガエルの実写版’だな。