「シネ・フロント」7月号 No.378

knockeye2011-08-16

 映画「バビロンの陽光」を見逃したという話。
 記事の日付は16日になっているが、書いているのはもう20日。ジャック&ベティできのうまでかかっていた。朝の10:00からという苦手な時間帯だったので、気がつかなかったし、いずれにせよ帰阪していた。
 すると何ですか?ジャック&ベティの先週のスケジュール、ジャックで「バビロンの陽光」、「ダンシング・チャップリン」、「あぜ道のダンディ」ほか2本、ベティで、「Peace」、「ミラル」、「BIUTIFUL」って、粒ぞろいにもほどがある。
 「ダンシング・チャップリン」を観た日、「バビロンの陽光」を特集した雑誌が売店に置いてあったので手に取った。それが「シネ・フロント」の7月号。監督のモハメド・アルダラジーと、高遠菜穂子のインタビューが掲載されている。

 映画「バビロンの陽光」は、行方不明の父を、クルド人の祖母と孫のふたりが、わずかな手がかりをたよりに探すロードムービー
 モハメド・アルダラジーは、2003年に集団墓地発見のニュースに接し、それから調査に4年を費やした。
 祖母役のシャーザード・フセインは、実際に映画と同じような経験をしている素人の女性をオーディションで選んだ。オーディションと言っても、彼女自身が映画そのものを知らないというから、日本で言うオーディションとはかなり違っている。映画のなかで集団墓地にいる女性たちも、実際、そこで家族を捜している人たちだそうだ。

 撮影中のあるとき、彼女は8時間にわたり、自分の役柄と記憶の間に閉じ込められてしまいました。息子を探す役柄ですが、この役を演じることで自らの体験を追体験することになったのです。私たちはみな、彼女の苦痛を和らげてあげることもできず、ただ一緒に彼女と同じ苦痛を感じました。

 このとき私は、彼女を主人公に選んだのは正しい決断だったろうかと悩みました。なぜなら私たちは彼女に再び悲しみと苦痛を与えていて、それによって私たち自身も、自分の母や叔母、姉や妹の痛みを認識しはじめていたからです。

 このことは撮影中ずっと、私たち全員に深く影響を与えていました。私は、みんなをこんな状況にさせてしまうなんて、自分はなんと残酷なのだろうと考え始めていました。もしかしたら、あの当時の現実は、正直に伝えるにはあまりに現実的で、あまりに現在的すぎたのかもしれません。

 私たちは、このシーンの後、2日間の休暇を取りました。撮影が終わるころ、再び彼女について知ることができました。彼女はサダムの裁判で証人を務めていたのですが、私にこう言ったのです。

 「モハメド、これだけの経験をしてもなお、私は復讐を求めてはいないわ。いまではもう。許すということができたら、それこそが、イラクが前に進むということなのよ」

 編集の際に彼女の演技を見て、私は自分が抱いた疑問について考え、彼女が真に心揺さぶる演技をしてくれていたのだと気づきました。あのような経験と人間性を持った人だけができる演技です。彼女を選ぶのは難しい選択でしたが、正しい選択だったのだと感じました。

 また、この映画はサンダンス映画祭の支援を獲て完成したそうで、インタビュアーが、サンダンス映画祭の主催者ロバート・レッドフォードの次のようなエピソードを語っている。
 来日したロバート・レッドフォードに、ある日本人プロデューサーが
「日本でも、ハリウッドのような、世界でヒットする映画を作りたい」
というと、
「そんな映画は見たくない。私たちは、日本人が描いた日本人の物語を見たい」
と、直ちに反論したそうだ。
http://www.babylon-movie.com/index.html

 高遠菜穂子をめぐる事件については、このブログで何度も書いてきた。私自身の意見も書いたし、私以外の人たちの発言も、目につくかぎり、無断で引用した。

 突然、襲いかかって来て、胸ぐらを掴まれることもありましたから、ほんとうに恐かった。音楽なんかも聴けないんです。イヤホーンをつけて聴く余裕もない。いつも、いつ襲ってくるかもしれないので、警戒していないといけないですから。日本にいるときのほうが、イラクにいるときより緊張していました。
(略)
 ほんとうにどこから襲いかかってくるかわからないんです。しかも、見るからに攻撃してくるような人だったらわかりますよ。右翼の人だったら心の準備もできる。でも、普通の人がいきなり襲ってくるんです。

 大虐殺と集団墓地がイラク人の問題であるように、あの人質バッシング事件は日本人の問題であると私は思っている。
 そのことについては、石原慎太郎が「天罰」と言い出したときにもふれたし、阿部謹也の指摘も紹介した。そういう風にたぐっていくと、法然という人がこの国にとってどんなに新しいかがわかる。死後800年たった今でも、新しすぎて、少なからぬ人にとって、いまだに理解不能だろうと思う。現に、わたしがここで法然を持ち出すことが唐突に思えるはずだ。それは、必ずしも文章の拙さによらないのだ。
 高遠菜穂子は、

 あのときが、私が今まで生きてきたなかで最大の対話だった。

と誘拐犯たちとの会話について、そう書いているが、おそらく、それは、戦後の日本人がした対話のなかでも、最大の対話のひとつだろうと思う。

 2004年に拘束されたとき、武装勢力の人たちがアルカイダではなく、普通のおじさんたちだということがすぐわかりました。要するに、アメリカ軍に子どもを殺された人たちだったのです。
(略)
 でも、そのとき、日本がイラク戦争に参戦することに対して申しわけない気持ちでイラクに行ったけれども、私は彼らがやっていることを正当化しませんでした。あなたたちのやっていることは間違っている、と言いました。
(略)
あなたたちはアメリカ軍に苦しめられた。家族を殺された。そのことで苦しんでいる。あなたはアメリカ軍を罵っている。だけど、あなたは、アメリカ軍がやったことと同じことを私の家族にしているんだよ。今、あなたが私を殺せば、私の家族はどう思うか。あなたがやっていることは間違っている。ほかの方法があるはずだ。
 そのあと私は、カーシムの話をしたんです。私の友だちの元共和国防衛隊の兵士も、ずっとアメリカへの復讐を胸に秘めていた。今は違うやり方を選択している。いつか、彼とあなたが町で出会って話をすることを強く望んでいる、と。 

 銃を突きつけられた人質という立場で、これだけの話をした。

 あのときが、私が今まで生きてきたなかで最大の対話だった。
 宗教談義もしました。
「お前が俺と一ヶ月一緒にいれば、間違いなくイスラム教徒になるだろう」
と言われたから、もしあなたを日本にお連れして一ヶ月経ったとき、私だったら、あなたに
イスラム教徒のままでいてください」
といいます。
 私がイラクに来たのは最近のことで、私は日本という国に生まれ、日本文化の中で育った。日本語で育てられた。私の両親は英語もしゃべれない。日本語しかしゃべらない。あなたはここで生まれ、イラクの言葉で育った。
 だけど、あなたと私の違いは何ですか。あなたにも目がふたつあり、鼻があり口があり手があり、指が五本ずつついていますね。私にもあります。違いは何ですか。言葉だけじゃないですか。
 英語でこれは「ハンド」と言う。日本語では「て」と言う。イラクの言葉ではなんと言いますか。アラビア語で言ってもらいました。違うのは言葉だけじゃないですか。だから、あなたがどんな言葉をしゃべっていようと、どんな宗教や考え方を信じていようと、私は、あなたはあなたのままでいてほしい。そう言ったんです。
 しかし、もしあのとき、
「私もイスラム教徒になります」
とか言ったら、もっと大変な状況になってたでしょう。でも、そんなことを言う気は毛頭なかった。

 アマゾンか楽天で紹介しようと思ったのだけれど、扱っていない。気になる方はこちらで手に入る。
http://cine-front.co.jp/purchase/index.html