柳田国男『野草雑記・野鳥雑記』より

knockeye2012-02-25

野草雑記・野鳥雑記 (岩波文庫)

野草雑記・野鳥雑記 (岩波文庫)

絵になる鳥


 ある年の五月、アルプという川の岸の岡に、用もない読書の日を送っていたことがあった。氷河の氷の下を出て来てからまだ二時間とかにしかならぬという急流で、赤く濁ったつめたい水であったが、両岸は川楊の古木の林になっていて、ちょうどその梢が旅館の庭の、緑の芝生と平らであった。なごやかな風の吹く日には、その楊の花が川の方から、際限もなく飛んで来て、雪のように空にただようている。以前も一度上海郊外の工場を見に行った折に、いわゆる柳絮の漂々たる行くえを見送ったことがあったが、総体に旅客でない者は、土地のこういう毎年の風物には、深く心を留めようとはせぬらしい。
 しかしそれはただ人間だけの話で、小鳥はこういう風の吹く日になると、妙にその挙動が常のようでなかった。たて横にこの楊の花の飛び散るなかに入って行って、口を開けてその綿を啄もうとする。それをどうするのかと思ってなお気を付けていると、いずれも庭の樹木の茂った蔭に入って、今ちょうど落成しかかっている彼等の新家庭の、新しい敷物にするらしいのであった。ホテルの庭の南に向いた岡の端は、石を欄干にした見晴し台になっていて、そこにはささやかなる泉があった。それとは直角に七葉樹の並木が三列に植えられ、既に盛り上がるように沢山の花の芽を持っている。どれもこれも六七十年の逞しい喬木であった。鳥どもは多く巣をその梢に托していると見えて、そちこちに嬉しそうな家普請の歌の声が聞えるが、物にまぎれてその在処がよくはわからなかった。
 ところがどうしたものかその中でたった一つがい、しかも羽の色の白い小鳥が、並木の一番端の地に附くような低い枝の中ほどに巣を掛けている。僅かばかりその枝を引き撓めると、地上に立っていても巣の中を見ることが出来た。巣の底には例の楊の綿を厚く敷いて、薄鼠色の小さな卵が二つ生んである、それがほどなく四つになって、親鳥がその上に坐り、人が近よっても遁げぬようになってしまった。折々更代に入っていて、一方が戻って来るのを待兼ねるようにして、飛んで行くのが雄であった。気を付けて見ると、この方が少しばかり尾が太い。庭掃き老人がそこを通るから、試みに名を尋ねて見た。多分Verdierという鳥だと思うが確かなことは知らないと答える。英語ではGoldfinchという鳥だと、また一人の青年が教えてくれたが、これも怪しいものであった。後に鳥譜を出して比べて見ると、似ているのは大きさだけで、羽の色などは双方ともこの巣の鳥とは同じでなかった。がとにかくに幾らもこの辺にはいる鳥ではあったらしい。
 この頃家に十姉妹を飼うようになってから、その小さな目を見るたびに、いつでも私はあの時のことを想い出す。ちょうどこの目をして七葉樹上の彼等も、また私を見たのであった。少しの反抗もない警戒に、一分の懇願をまじえたような目であった。どうしてそのように近々と私たちを見つめるのかと、訝かるような心持ちも感じられぬことはなかった。そこで自分は出来るだけ遠くから、また尻尾の方からばかり、いるかいないかを見ようとしたのであった。風の吹く日には尻尾は必ず風下の方へ向いて巣の外へ突き出していた。そうしていつ行って見ても、殆どその尻尾の出ていない時はなかったのである。英国に留学して鳥を研究している蜂須賀君が遣って来て、何日目かに雛になるかを知らせてくれと頼んで行ったが、余り遠慮をしていたのでとうとうそれを確かめることすら出来なかった。
 おまけにこの鳥の巣の秘密が、次第に同宿の間に知れ渡って来た。私の目的は全く保護にあったのだが、心なくその木の蔭に立つ者を制しようとしたために、かえって多くの人の話の種になり、中には娘たちを案内して、ぞろぞろ見物に行く男もあった。そのうちに和蘭の外交官という人の細君が、いたずらそうな男の児ばかり、四五人も連れて遣って来た。頬の赤い眼のくるくるとした子守娘が、事実上の餓鬼大将としてこれを引率している。これはとんでもない敵軍が押寄せたものだと、独り鳥以上の不安を抱いておったところが、果たせるかなその次の日の昼過ぎには、もうその巣は空っぽになっていた。何でも昨日の朝とかから親鳥は餌を運び始めていたというが、私はとうとう様子を見ずにしまった。そんな小さな目も見えぬものを、彼等は取下ろしてどうしたというのであろうか。尋ねて見ようにも言葉は通ぜず、さもさもそんな事は冤罪であるかの如く、平気な顔をして一日中その樹の下を飛びまわって、もう次の日にはいずれへか出発してしまった。
 私の話は前置きが長くて、本文はかえって僅かしかないが、書いて見たいと思うことはこのあとの経験である。ホテルには毎日午前のうちに、寂しいといってよいほど静かなる少しの時刻がある。私はその際ふと窓外の鳥の声を聴きつけて、庭に下りてまた昨日の七葉樹の蔭に行って見たが、巣は殆ど元のままであって、その上の枝に二羽の親鳥が、半ば身を傾けてじっとしてその巣の中を覗いていた。何とも言われぬ位にその形があわれであった。そこで始めて心付いたことは、古来東方の故郷の国において、人が深くも考えずに粉本を伝えていた、絵様というものにも基づく所があるということであった。獣には普通子を連れた形、右往左往に遊び戯れるのをそれとなく見守っている処を絵にしているが、いわゆる花鳥には往々にしてこの日の午前のVerdierのような姿がある。それを単なる配合の面白さから、選び出して写したようにこれまでは考えられていた。即ち画は人間の美しいという尺度が定まって後に、それを自然にあてはめて合格したのを採ったものと、多くの歴史家は説明するのであるが、もう自分等はそれを信じなくてもよいと思った。夢で見たもの幻で感動したことが、強く残っていなければ神の像は描かれぬ如く、かつてある日の物の哀れというものが、自然に我手を役してその面影を再現させようとしたのが、言わば我々の技芸の始であった。写真の真に迫るということは、恐らくは単に心の鏡の澄みきっていたことを意味する以上に、更にそれ自身の光というものがあって、特に力強くある物を照らそうとした結果であろうと思った。鳥が人間の魂の兄弟であることを信じていた者は前代には多かった。従って同じ親子の愛情にしても、彼等の感じたものは格別に理解しやすかったので、彼等のこんな簡単な巣を窺うような形までが、永く記念の像を後代に遺すことになったのではないかと思った。
 旅人が殊に鳥類の声姿に、心を引かれるのも由来があることらしい。これも藝術の起源論と同様に、美しいということはむしろ結果であって、以前は今よりも一段と彼等の挙動によって、学び心づくことが多かったために、これをよそよそしく眺めることが出来なかったのかも知れぬ。私はまたある時、亜米利加の曠野を過ぎていて、二羽の闘う小鳥が空中に向き合って、羽ばたきする姿の美しいシンメトリイを見たことがある。古い鏡や錦の模様の中に、これは何度となく見馴れている形であった。鶴の稲穂の国々の伝説を記憶する者には、いわゆる松喰鶴の絵様も、単なる空想の所産とは思われない。たとえその実験は稀にしか得られなくとも、やはり最初はこれによって、何か貴重なる啓示を与えられた名残であることは、卍字も十字架も異なる所はなかったのである。