『百年の孤独』『命毛』『ぼくがいま、死について思うこと』

knockeye2013-10-13

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

国芳一門浮世絵草紙 5 命毛 (小学館文庫)

国芳一門浮世絵草紙 5 命毛 (小学館文庫)

ぼくがいま、死について思うこと

ぼくがいま、死について思うこと

 出勤しなければならないかなと考えていたのに、案外、しごとがはかどって三連休になったうえに、これがまた望外の好天、いい天気すぎるので、どこにもでかける気がなくなって、ひがな本を読んですごした。
 椎名誠のは、こないだの本といっしょに買ったやつ。
 椎名誠は、今まで死について考えたことがなかった、とかいうわけ。いいよね、そういうの。だって、作家が、死について考えたことない、とか、サラッと言えるのは、わたくし一応世界苦を背負ってます、みたいのより、王様が裸だ、といった少年くらいには風通しがよい。
 でも、この人は、旅から旅のひとなので、いざ、死についてかたるとなると、観念的じゃなくて、かえってすごみのあるエピソードがけっこういろいろでてくる。日本にいると、死が遠いことのように思うし、生を充実できないかわりに、老いと死を先延ばしにしようとするけれど、日本を、というか、住み慣れた思い込みの世界を一歩外に出てみると、死が生のとなりにいることを思い知らされることも多い。死を非日常的で、理不尽なことだという考えの方が、よほどバカげていると知らされることになる。
 とくに印象的だったのは、アマゾン流域に住む原住民のお産の話。お産の時になると、妊婦はひとりでジャングルに入っていき、ひとりで赤ん坊を産み、そして、ひとりの判断でその子を育てるか、精霊に任せるかを決める。精霊に任せると決めた場合、その子を殺してシロアリの巣に埋め、数日後に巣ごと火をつける。
 ひとは必ず死ぬ。それを理不尽というのは傲慢だろう。ひとは必ず死ぬのが真実だとすれば、その精霊はウソかといえば、それは少なくとも、その真実に拮抗する重いウソだといえるだろうし、だとしたらそれはもうウソではない。永遠の命を約束する宗教こそウソだろうし、そんなウソが軽々しく用をなす社会は、死も真実も軽い社会なんだろうと思う。
 河治知香の『命毛』は、一巻目からずっと読んできた『国芳一門浮世絵草紙』の五巻目、これでしめくくり。
 実は、ずっと前に買っておいたのだけれど、最終回となると、気乗りがしなくて後回しになっていた。
 歌川国芳の浮世絵は、近年、がんがん評価が高まっている。展覧会も、私がいま思い出せるだけでも、森アーツギャラリー、府中美術館、横浜美術館太田記念美術館、行ってはないけれど、ロンドンのロイヤルアカデミーでも開催された。
 国芳だけでなく、国芳一門を概観すると、江戸から明治への連続性が感じられる。月岡芳年、河鍋暁齋、といった画家として名をなしたひとだけでなく、三遊亭円朝とか、後の毎日新聞の創業者落合芳幾も弟子だった。
 巻末に、この小説を書き始めた頃のエピソードが紹介されているが、小説に負けず劣らず‘奇遇’だったようで、小説の資料について相談していた編集の方が、たまたま補聴器を忘れてきていて、大きな声で話していると、その店でたまたまとなりにいたのが浮世絵の専門家の方で、その人に国芳にくわしい方を紹介していただけたのだそうだ。
 しかし、主人公の登鯉、国芳の娘で自身も浮世絵師だった歌川芳鳥については、くわしいことはほとんど分かってなくて、ほぼ創作なのだそうだ。
 登鯉と、この国芳一門の群像劇を、映画かテレビドラマにしてみたいと思う不届き者がいても不思議ではないが、たぶん、惨敗に終わるだろう。というのは、川島雄三が「幕末太陽傳」を作った頃みたいに、江戸の風俗を再現できるスタッフがいないし、着物を着こなせる役者もいない。
 ガルシア・マルケスの「百年の孤独」は、いまさら私ごときが何を言おうか。ただ、やっぱり西欧の死生観とはへだたりがあるなと思うのと、わりと最近に読んだせいもあり、ドナルド・キーンの『渡辺崋山』が、ふと頭に浮かんだのは、納屋で腹を切って死んでいる渡辺崋山を彼の母親が発見したときの、あの生き生きとした物語は、あれは実話なんだけれど、ドナルド・キーンの目には、ガルシア・マルケスの物語とほとんど同じくらいの奇譚と見えたのではないかということだった。
 渡辺崋山のそのころから、明治維新まで百年も要さなかった。そして、第二次大戦が終わってから今まで、それと同じくらいの時間が流れた。近代日本の栄枯盛衰でいえば、どうももう‘枯’と‘衰’の坂を下りつつあるような切ない気持ちになる。
 マコンドの町と同じように、何世代にもわたって同じ過ちをくり返しながら、どんどん劣化していくように思う。なんか似てる、この人たちのあきらめ方、ウソの受け入れ方が、わたしたちと。