野田佳彦総理大臣が、「消費税増税に政治生命を賭ける」と発言しているようだが、何か勘違いしているのではないかと思うので、一応確認しておくが、日本は民主主義の国なので、毎年浮かんでは消えるうたかたの総理大臣の政治生命がどうあろうが知ったことではないので、選挙の公約を踏みにじって増税するなら、国民に信を問うてもらわなければ困る。
どうしても消費税増税が必要と思うのなら、誠意を尽くしてそれを国民に訴え、信を問うて、理解が得られなければ政界を去るというのが、政治家が政治生命を賭ける本来の姿である。
それを今、野田佳彦総理大臣が言っているのは、国民に信を問うまえに増税しちゃいます。そのあとで、選挙します。どうせ負けるから、それで政権を放り出します、それでいいでしょ、ということで、これでは野田佳彦の政治生命より、日本の民主主義の生命が先に尽きてしまう。
郵政民営化は、株を手放さない、つまり、民営化とは名ばかりで、今まで通り官僚や族議員が支配する、という結果になりそうだが、小泉純一郎の郵政選挙のことを思い出してみれば、野田佳彦と態度の違いは歴然としている。
郵政民営化は、もともと小泉純一郎の持論だったのだし、総理就任後、長い時間を掛けて議論してもきたのだし、そして、なにより選挙で国民に信を問うて賛同を得たのだから、これで、これが実現せず、国民が信任していない消費税増税は実現するとなると、日本の民意はどこにあることになるのか。
Wikipediaには、
「郵政民営化(ゆうせいみんえいか、英語:Postal privatisation)とは、従来国営で行われてきた郵政事業を組織構成を組み換え民間企業に改編することである。ただし、日本においては、本来は郵便を行う郵便局が貯金や保険などの金融業務を行っており、事実上、世界最大の金融機関となっており、郵便業務だけを行う郵便局の民営化が焦点となることが多い外国とはその内容や重要性が大いに異なる。」
とあるが、郵便事業ではなく、‘官僚が世界最大の金融を支配している金融のダブルスタンダード’に郵政民営化の論点があったはず。
郵政民営化は、官僚支配の原資を絶つためには、避けては通れない政策であったはずだ。ポピュリズムだの市場原理主義などの戯言とは何の関係もない。
ところが、マスコミは、おそらく意図的にだろうか、‘郵政が民営化されれば田舎のお年寄りが小包を出せない’、‘海外でも郵便事業の民営化はうまくいっていない’など、その最大の論点を避けた。
つまり、少なくとも、健全な議論の場として、この国のマスコミは機能していない。
郵政民営化の最大の問題は、政策の是非よりも、むしろここだったかもしれない。
バブル崩壊が端的に示すように、官僚が支配する経済の構造はもはや機能しておらず、今後どのような経済モデルを選択するにせよ、この官僚支配の構造を改革しないかぎり、前に進みようがない。オバマの演説ではないが、この国では「小さい政府か、大きい政府か」の議論は意味をなさない。なぜなら、この国では、政よりはるかに巨大な官が腐臭を放っているから。
しかし、改革にはまずなによりも徹底した議論が必要だが、本来そうした議論を喚起しなければならないマスコミが、かえって議論を封ずる方向に動く。このことが、この国の抱えている大きな、おそらく宿命的な、問題点だと思う。
新聞によると、今回の郵政民営化修正案に反対する理由を聞かれて、小泉進次郎は
「それは言わぬが花」
と答えたそうだ。
よい発言だとは思わないが、その態度には承伏せざるえない部分がある、というのは、もし、今、新聞記者なり、他のメディアなりに真摯に語ったとして、それが語った意図通りに記事にされるかというと、大いに疑問だと思うがどうだろうか。
小泉純一郎の手法を、当時、マスコミは、‘ワンフレーズ・ポリティクス’などと揶揄したものだが、しかし、マスコミが政治家の真意を歪曲して伝える以上、誤解されないワンフレーズを選ぶしか戦略がないのではないか。
かんぽの宿をめぐる一連の報道をみていても、鳩山邦夫のパフォーマンスは喜んでとりあげるが、西川善文や宮内義彦の側には、まともな反論の機会さえ与えられていなかったではないか。
以前にここにも書いたことだが、日本のマスコミは、とくにテレビは、ジャーナリズムの名に値しない。
週刊プレイボーイのコラムに、佐藤優はこう書いている。
筆者は「どうしてテレビに出ないのですか」という質問をよく受ける。そういう時には、「7年前、鈴木宗男疑惑の時に一生分テレビに出たのでもういいです」と答えることにしている。
これはかなり正直な気持ちだ。テレビは映像と音声、そして文字が同時に流れてくる。頭で理解する前に印象が焼き付いてしまう。いったん「悪いやつだ」というイメージがテレビで定着すると、解消することはまずできない。
今のままでは、テレビや新聞などのマスコミは、加速度的に信頼を失っていくだろう。
私がこのブログでふれる政治の話題は断片的なものだが、こうした無数のブログを裾野に控えて、アルファブロガーといわれる存在も登場してきている。それに、大前研一、野口悠紀雄、高橋洋一、池田信夫、岸博幸、財部誠一、田原総一朗、などなど、マスコミよりむしろネットに発言の力点を移す論客も多くなった。また、ツイッターの普及と絡んで、上杉隆の自由報道協会の今後にも目が離せない。
重要なことは、これらのネットの発言が正しいかどうかではない。議論として成立するということなのだ。議論として成立するということは、そこに言葉があるということ。これは重要な一歩だと思う。
マスコミが声高に叫んだ「格差社会」だの「新自由主義」だのという奇妙な造語は、戦時中の、「一億火の玉」とか「鬼畜米英」とかと何ら変わらない。言葉とは言えないただの標語、といってもまだひいき目かもしれない、呪文とか題目というほどのうつろなものにすぎない。今はこれが、「絆」に変わっているだけ。彼らはこれからも同じことを繰り返すだけだろう。けして前には進まないだろう。