「311」

knockeye2012-04-28

 ジャック&ベティで「311」。今日から2週間の限定上映。

 初日なので、監督ふたりの舞台挨拶があった。
 監督ふたりっていうのも変なようだけど、じつは、この映画の監督は四人いて、しかも、事実上出演も四人っていう、手作りのロードムービーっていうか、ちょっとやさぐれている。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」か「イージー・ライダー」のような味わい。
 この1週間に、石川梵の写真展「THE DAYS AFTER」とこの映画と、石巻の大川小学校を取材したものを、奇しくも続けてみたことになるのだが、客観性なんて言葉に騙されちゃダメだなと、あらためて肝に銘じた。
 どちらがどうということでなく、印象ががらりとちがう。180度違うというならまだわかりやすいが、まるで別の物語のように違う。映画や写真を見ただけでわかったつもりになっちゃいけないなと思う。
 「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」といったのは、この映画が、取材する側を映画の主人公に据えた視点。それに、ブレアウイッチの森より津波の被災地の方がはるかに、それはもちろん比較にならない、死の支配する場所なのだ。
 今回、映画の後の質疑応答が充実していた。
 「福島の原発の取材から、津波の被災地へと取材対象が移り変わったのは何故か」という質問に対しては、
 「映画の編集では、冒頭が福島で、その後、津波の被災地の順になっているが、実際には、津波の被災地が先で、そのあと、福島の取材という順番なのだが、それを入れ替えたのは、まず、取材する側の日常が描かれている、福島の映像を使いたかったから」
ということだった。
 何より「後ろめたさ」を描きたかった。
 取材する側が画面に入り込むことは、それを見ている観客も当事者として巻き込むことで、それは成功していると思う。というか、それがこの映画の勘所だろう。編集の意図がはっきりしている。
 それから、遺体を画面に映し込むことについては、綿井健陽が答えていたが、(ところで、今回、生で綿井健陽をみて、誰かに似てるなぁと思ったら、エンジェルスにいた長谷川滋利そっくり。とくに声としゃべり方が)
 「日本の報道は、こんどの大震災では、暗黙の了解のように‘死体’を画面から排除したのだけれど、それがそうあるべきだったのかどうか、何の議論もなしに、横並びにそうであったことには疑問が残る」
というようなことを話していた。
 この映画のなかでも、娘さん‘かもしれない’遺体を前にした、お父さんの途方に暮れた姿が印象的だった。
 東日本大震災の‘死体’については、石井光太が本に書いていたし、SPA!の福田和也坪内祐三の対談でも言及していた。
 一枚の死体の写真が、世論を変えていたかもしれない。そういう力が、たしかに写真にはある。その意味では、そういった報道の自主規制、あるいは抑圧が、世論を誘導したという側面は、少なからずあったのではないか。
 去年のGWには、東北に行った。といっても、例によって、ゴールデンでも、ウイークでもなかったし、足が確保できていなかったので、ただ行って帰っただけに終わってしまったのだが、実際に目で見てきても、この1年の時の隔たりには大きなものがある。記憶の風化がある一方で、記憶の深化といったものもある。
 一年経って、こういう映画を見て、でも、どうだろう。もし、あの当時、一枚の死体の写真が報道されていたらどうだったろう。それが、一枚だけでなく、十枚、百枚、千枚とあったら、野田政権は、消費税増税とかにうつつを抜かしていられただろうか。福島第一原発の内部までカメラが入り込んでいたら、なし崩しに原発再稼働などできただろうか。
 どうも変な国に生きている気がする。
 帰りにコージーコーナーで、コーヒーとマンゴーショートケーキを食べたのだけれど、ケーキに巻いてあるビニールにこう印刷してあった。
「本製品には果物のたねが入っている場合がありますので、注意して下さい。
 本製品には果物の果肉や、皮が入っている場合がありますので、注意して下さい。」
 そりゃマンゴーショートを頼んでいるのだから、果肉が入ってないとこまるのだけれど、ケーキ屋がこんなことを書かなければならない国で、死体の写真を報道するとしたら、そこにどれだけのキャプションを書き添えなければならないだろうと考えるとおかしくなった。
 この国で人が口にするのは、他者への批判と、自分の言い訳だけ。誰も自分で決断し行動しない。