「ダークナイト ライジング」

knockeye2012-07-28

ダークナイト」を観た時にも思ったけれど、やっぱりバットマンは戦前のコミック。鉄腕アトムよりはるかに古い。それを現代、あるいは近未来に舞台を移し替えても、世界観の古さはどうしようもない。
 たとえば、執事、たとえば、孤児。オリバー・ツイストとか、家なき子とか物語の骨格はそんな感じ。正義といっても市民社会の道徳というレベルをでない。そして、その正義を人知れず守っているのは、並外れて親切なお金持ちという。
 そこに、ゴシックとエキゾチズムを加えると、ほぼバットマンの世界になる。それは、おそらく、原作の世界観がそうなので、バットマンであるかぎりそれは変えようがない。ゴッサムシティーは、永遠にニューヨークたりえない。それは、はじめから原作が意図してないんでしょう。
 だからほんとは、ゴッサムシティーという、ニューヨークみたいでニューヨークじゃない、ゴシック臭ぷんぷんのあやしげな架空の町を、どう構想するかという部分が大事で、それが抜け落ちてしまうと、バットマンという物語は非常に苦戦するんだと思う。この三部作では、ゴッサムシティーがすこしニューヨークに近づきすぎている。そのために物語がファンタジーに飛べない。
 そしてもうひとつ不幸なことは、バットマンくらいの武装ならば、現代の技術で実現可能っぽいということ。「キックアス」でニコラス・ケイジが演じたビッグダディの、バットマンまがいの装備は、実際にフランスの機動隊が使用しているものなのである。
 バッドマンのファンタジーの一部はいまやリアルにすぎない。そういう感覚でバットマンを翻案するとこうなっちゃうのはよくわかる。
 でも、どうだろう。戦前にゴッサムシティーという架空の町を舞台に描かれたコミックの主人公が、現代のニューヨークに現れるとしたら、「ダークナイト」としてより、「キックアス」としての方が正しくないですか?あんなのがほんとにいたらイタイでしょ。
 そのイタイところで笑わせながら、いつしかビッグダディとヒットガールの世界に引きずり込むところが「キックアス」のすぐれたところ。
 それをいっちゃうと、「グラッフリーター刀牙」だって、「電人ザボーガー」だって、「ヤッターマン」だって、そこが‘つぼ’であり‘みそ’なのである。
 それを「ダークナイト」のこのシリーズは大真面目でやっちゃう。もちろん、そのいきかたもあると思うけど、だったら、ゴッサムシティーという舞台の世界観があいまいすぎる。ニューヨークにあれがでてきたら「キックアス」になるしかないもん。
 なんか文句ばっかり書いてしまったけれど、面白くなかったわけではありません。面白くない映画はほんとに面白くないからね。ときどきありますけど。