「スカイフォール」「ゴーストライダー2」「ジャンゴ」

knockeye2013-03-08

 今週は特にだが、このところ忙しくなってきて、ブログを書き漏らすことが多くなってきた。
 先週の土曜日は、「フライト」だけでなく、「ジャンゴ 繋がれざる者」も観たし、書き漏らしたといえば、「ゴーストライダー2」も、「スカイフォール」もそう。でも、これは振り返ってみれば、おおむね好評か、大好評の作品ばかりで、眠い目をこすって液晶にむかわなくてもという。
 「スカイフォール」は特に大成功だったらしく、SONYピクチャーズの記録を塗り替えたとか。この‘007の復活’は、ここ数年のイギリス映画の盛り上がりを背景にしているだろうが、それを絵の上で端的にいえば、‘胸毛の復活’だろう。ジェームズ・ボンドの胸に胸毛が帰ってきた。
 アメリカが世界の富を独占していた頃、ランボーの胸はつるんつるんだった。あまつさえうっすらオイルも塗っていた。脇毛だって処理していた。あのころ、胸毛は女性たちに非常に不評だったはずだが、いまはどうなんだろうか?。ダニエル・クレイグショーン・コネリーの正当な後継者であることを示す証しは、あの胸毛だと思う。
 むだ毛を処理するというアメリカの価値観を日本人は無意識に受け入れている。その意味で、私たちの文明はアメリカの影響下にある。でも、その価値観はだんだん相対化していくんじゃないのかなという予感をあの胸毛に感じた。胸騒ぎ。
 「ゴーストライダー2」。ニコラス・ケイジは好きなんだけど、前作はあまりそそられなかったのでパスしたけど、今回のははっきりバカバカしそうなので観にいった。
 正直言うけど、「ダークナイト」とかさ、コミックなのに哲学ぶってんのしらけるんだよね。
 あらすじを簡単にいうと、ニコラス・ケイジが、なんかの拍子に、ボーボー焼ける髑髏に変身して、手当たり次第に人を殺しまくる。面白いのは、変身したら見さかいがないところ。バットマンとか仮面ライダーみたいにはコミュニケーションが取れない。
 変身の感じは、水谷豊少年が演じた「バンパイヤ」みたいだけど、やっぱりビジュアルから「黄金バット」を思い浮かべたな。
 「黄金バット」は戦前の紙芝居から生まれたヒーローらしいのだが、なんだかよくわからない。同じ頃にゴールデンバットというたばこがあるから、それと無関係ではなさそうなんだけど、それもよくわからない。ただ、髑髏が主人公になりうる社会背景というのがありそうな気がして、それが気にかかっている。
 黄金バットは戦後テレビアニメ化されたことがあったが、その頃でもすでに「えーっ」という感じだったと記憶する。まあすくなくとも大ヒットはしなかったと思う。そういう髑髏キャラがアメコミに生き残っていた(と、見えてしまう)のがちょい不思議。
 今回のゴーストライダーニコラス・ケイジモーションキャプチャーで演じたそう。バイクもそうとう練習したらしい。子供を乗せてVmaxでウィリーを決めるシーンではさすがに緊張の面持ちに見えた。
 「ジャンゴ 繋がれざる者」は、すっと感情移入できる映画で、その意味で娯楽作品の王道。黒人差別という重い歴史をこういう娯楽作品に結実したクエンティン・タランティーノは偉いと思う。前作の「イングロリアス・バスターズ」でも同じ狙いがあったと思うのだけれど、あまりうまくいかなかったように見えた。
 しかし、あらためて思うのだけれど、黒人奴隷という制度はひどい制度だった。町山智浩週刊文春に書いていたけれど、当時の白人はそもそも黒人を人間と認めていなかった(ブラウン・シュガー)。これは否定のしようのないアメリカの史実だが、問題なのは今どうなのかだとおもう。
 若い頃のわたしは、南京大虐殺とか従軍慰安婦とかのことを考えるとき
「わたしたちはなんてひどいことをしたんだろう」
と考えていた。しかし、あるときふと思った。
「‘わたしたち’って、よく考えたら、‘わたし’は、それに何もかかわっていない。それなのに、それを‘わたしたち’の問題ととらえるのはウソじゃないか。」
 問題は「彼ら」なのである。やったやつらがいる。わたしたちはそれを「わたしたち」の問題だと思い込まされている。「一億総懺悔」とかいわれてあっさり受け入れている。わたしたちの問題はむしろ彼らをつるし上げないことなのである。
 こういうことを書くと次には天皇責任に話が及ぶように思われるだろうが、私はそうは思わない。どう考えても、憲法統帥権を利用して、軍官僚が暴走したというのが正しい理解だろう。金大中は、テレビのインタビューで、天皇の権威を利用した軍の責任だといっていたと思う。
 ところが、中国や韓国には天皇の責任をいいたがる人がいる。わたしは、そういう人たちは、むしろ、いまだに旧首長国としての日本の支配から抜けきっていないと感じる。ちょうど、いまのわたしたちが何の疑いもなくむだ毛を剃るように、無意識に天皇の絶対的な権威を受け入れている。
 そして、さっき「わたしたち」について書いたと同じように、中国や韓国にも、戦争の被害を「わたし」の問題と言える人はどんどん減っていると思う。わたしたちは今や歴史について語っているにすぎない。それが、まだかさぶたになりきれないほど生々しい現代史であるとしても、歴史の問題を現実の政治の問題と混同すべきではないだろう。
 今の経済状況を眺め渡してみると、日本、中国、韓国、台湾の関係は、歴史上またとないほど可能性に満ちている。上の4国が友好であれば、世界に対してとてつもない発言力を持ちうる。それなのに、祖父の世代の過去に拘泥していがみ合っているのは政治的な不能というべきだろう。日本の責任というなら、むしろこの政治の不在にこそ責任を感じるべきではないだろうか。
 話を「ジャンゴ 繋がれざる者」にもどすと、レオナルド・ディカプリオの悪役ぶりも堂々としていたが、サミュエル・L・ジャクソンがすごかった。黒人俳優があれを演じられることに感動した。