ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』と砂田麻美の「エンディングノート」は、娘が父を描いた実話で、小説と映画の違いはあるといえ、どちらもエンターテインメントとして受け入れられることを望んでいる点では似ているのかも。
家族への愛情をいったん対象化して作品に昇華している。
とくに、「エンディングノート」は、ビデオカメラが一般家庭に普及していなければありえない作品で、今の日本という国のある一面を正確に反映しているという意味からも、もっと積極的に評価されていいんだろうと思う。
いまさらこんなことを書いているのは、今月の文藝春秋に掲載されている、周防正行と砂田麻美の対談を読んだから。
ほんとうは「民主解体、失敗の本質」という、当代文化人の集団投稿を読むために買ったのだが、いくつか拾い読みしてあほらしくなった。
対談のなかでちょっと‘むむっ’と思ったところを抜き書き
周防 最期が近づくなかで、お父さんが
「これからいいところへ行く」
という場面があったでしょう。囲んでいた家族に
「それはどんなところなの?」
と訊かれたら、お父さんは
「それはちょっと、教えられない」
と答えて、みんなを笑わせてましたが、あれは、実際にはどんな感じだったんですか。
砂田 あれは冗談みたいに聞こえるんですけど、実は父の目は至って真剣だったんです。
「携帯に電話して」
は明らかに冗談を言ってる目だったんですけど、あのときは違ったんです。何を見ていたんだろうと、今も不思議です。
あの映画を観た人なら誰でもこの部分、ちょっと感銘を受けるのではないかと思って紹介した。
吉本隆明が『最期の親鸞』で、「一編の思想詩を書き上げたかのよう」といいながらも「この先は『信』に属する部分で踏み込めない」と書いていたのを思い出す。
いずれにせよ、生命の問題を時間軸上に展開すれば、死後の問題は簡単に否定できる。この問題について、私が保留を感じるのはそこじゃない。