李明博

knockeye2012-08-27

 李明博大統領は、非常に有能で尊敬に値する政治家だったと思う。日本のカウンターパートだった福田康夫以来の顔ぶれを思い出すと情けなくなる。
 Wikipediaで、ざっと業績をおさらいしてみて、最近の竹島天皇云々を思い合わせてみても、やはり立派な政治家だったという思いは変わらない。
 竹島上陸とか天皇に謝罪要求とかは、李明博大統領がアジア全体になしてきた貢献に比較すればとるにたらない小さな事だと思う。どちらも単に儀式的なことであり、語弊を恐れずに言えば劇場的な行為にすぎない。事実、だれも実質的な損害を受けていない。
 政治に感情的になる人間だけが、あの程度のことを重大視するのだろう。日韓関係に限らず、政治に感情を持ち込むことほど愚かしい事もない。
 李明博の経歴をWikipediaで見ていて気になるのは、節目節目で検察に狙われているように見えることだ。もちろんこれは、辛い目で見れば、つねに不正の噂がつきまとうともとれるわけだが、すこし引いた目で大づかみにとらえれば、すでに企業人として成功している人物としては、あえて政治家に転身しようとする、その時々にかけられている嫌疑は、むしろせこすぎて信憑性がないと思える。経歴から人物の全体像を考える時、そこだけが破綻しているように思う。
 むしろ、日本生まれということ、そして、貧しい境涯から企業人として成功したという経歴それ自体を考えてみる時、もともと軍政から出発した韓国の古い権益集団が、これに対してどのような反応を示しただろうかと、私はそんな風に思いをめぐらせてみることが多い。
 このブログはほとんど読んでいる人がいない片隅のブログなので恐縮だけれど、それでもあらためてここに書いておきたいことは、李明博という人は尊敬に値する立派な人物だったと私は思っているということ。すくなくとも、今度の事件を人気回復に利用しようとしか考えていない、民主党の政治家など全員ひっくるめても、李明博の足元にも遠く及ばない。
 その人が政権の末期にはこういう追い詰められ方をする悲劇について考えているところ。その悲劇のテーマはおそらく‘愛国’で、悲劇の黒幕、クローディアスあるいはイヤーゴは‘愛国者’だと考えているところ。
 日経ウェブには、イギリスファイナンシャルタイムスの記事が時々載るのだが、その8月23日の記事に
日中関係に影を落とす「歴史問題」(23 August 2012 DAVID PILLING - Japan, China and the legacy of their ‘history problem’) ’
というDavid Pillingの記事があった。日中関係についての記事だが、日韓関係にもあてはまると思うのですこし紹介したい。

 政府がアジア諸国と良好な関係を築けないのには明らかな理由がある。領土や歴史の教科書、漁業権などを巡る論争は問題の一部にすぎない。すべての問題の根底にあるのは、日本が戦時中に犯した行為であり、日本がそれを適切な形で悔い改めているように少なくとも近隣諸国に見えないことである。
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1885年、日本のある新聞に「脱亜論」という匿名の社説が掲載された。福沢諭吉が執筆したとされるこの社説は、中華思想を退け西洋文明化を進めるよう訴えた。これは欧米列強による支配を避けるためさまざまな近代化改革を打ち出した1868年の明治維新の基本となった。
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 日本はあらゆることを西洋にならったが、そこには他国への侵略も含まれた。結果は凶悪で悲劇的なものとなった。日本は戦後、「西側陣営」として残った。米国の従属国として軍の維持や独立した外交の権利を奪われた。
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 多数の旧日本軍兵士が戦争中に犯した残虐行為について勇気を持って語り、日本政府もこうした行為を数えきれぬほど謝罪してきた。それでもなお日本がドイツのように「歴史問題」を克服できてなかったことには理由がある。ひとつはその名のもとに戦争が闘われた昭和天皇がなお在位中だったこと。もうひとつはアジアが戦後に冷戦構造に巻き込まれたことだ。イデオロギーによって分断されたアジアで、和解の機会はほぼ皆無だった。冷戦が終結し歴史問題が再び表面化した。
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150年前にアジアを去った日本は、もはや容易な戻り道のないことを実感しつつある。

 記事全体を承認するかどうかはともかく、西欧社会が先進的であるとを、自明のことのように信じていた時代には、けして書かれなかった記事だろうと思って感慨深い。すくなくともこういう記事が書かれるようになったということを考えれば、わたしたちは未来を信じてみてもよいのだろうと思う。戻る必要はない。
 それに、たしかにこの記事が指摘しているとおり‘すべての問題の根底にあるのは、日本が戦時中に犯した行為であり、日本がそれを適切な形で悔い改めているように少なくとも近隣諸国に見えないこと’なのである。
 私は、天皇に戦争責任があったと思っていない。天皇一人に戦争責任を押しつけることは、本当に戦争に責任を負うべき連中を見逃す行為にすぎないと思う。天皇陛下自身が靖国神社に参拝していないにもかかわらず、毎年靖国神社に参拝する‘愛国者’とはいったい何なのかということ。
 前にも書いたけど、愛国心と公共心をすり替えるなと言いたい。愛するならあなたの目の前の人を愛せばいいだけのこと。国籍差別の混じった愛なんて存在するはずがない。