残念な神社

knockeye2014-01-22

 去年の安倍首相の靖国参拝に、米国政府が公式に「失望」を表明したのは知ってたんだけど、何日か前に新聞を読んでいたら、実は、ロシア政府も「残念」と言っていたというのを読んで、その「残念」ていう表現が、なんかひさしぶりに波田陽区を思い出しちゃって気に入ってしまった。
 靖国ってひとことでいえば、たしかに「残念」な神社かもな。
 だれかが靖国のことを「日本人の魂」って書いてたんだけど、悪いけどそれは絶対ない。っていうのは、誰でも知ってるはずなんだけど、靖国って、明治になってから、薩長の人たちが建てた神社なんだよね。あえて下世話に言い換えると、「西欧かぶれの田舎侍が建てた神社」が、なんで、「日本人の魂」なんだよ。さすがにそれはないだろうよ。
 でも、そういう他愛ないウソを、一応「文化人」って言われてるような人が口走るっていうあたりが、靖国の「残念」の本質かもしれない。
 もう一度言うけど、そもそもは、薩長の田舎侍が、維新の戦死者を弔ったんです。だから、それだけなら誰からも文句言われないんです。それがなぜいまほとんど世界中から文句言われる「残念」な神社になったかというと、その後の近代化、中央集権化、そして西欧列強との競争過程でどんどん‘盛ってっちゃう’わけでしょう。その‘盛ってっちゃう’くせでついつい「日本人の魂」とか言っちゃうわけでしょう。
 明治2年に建てられた「東京招魂社」が「靖国神社」になったのは明治12年なんですって。それで、調べてみたら鹿鳴館が落成したのが明治16年。私には、靖国鹿鳴館時代精神を共有しているように見える。wikiに
「本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を‘滑稽’などと記して嘲笑していた。」
とある、鹿鳴館の残念さと靖国の残念さは質的に同じだと思う。鹿鳴館時代は明治20年に幕を閉じるのだけれど、もしいまでもそれが続いていると想像してみたらどうだろうか?。政治家たちが靖国を参拝するときの、あの芝居がかった感じは、もしいまでも鹿鳴館があったら、あのあと鹿鳴館でダンスしかねない感じじゃないだろうか。
 もっとも、西欧でも事情は似たようなもので、去年、「輝ける王妃エリーザベト展」というのを観に行ったんだけど、エリーザベトの美貌は、個人の属性ではなく、もはや政治だったということがよくわかった。自分の美貌がオーストリアの威信にかかわっていると、すくなくとも、本人は思っていた。
 身長172センチで体重50kg、ウエスト51センチを生涯保ったんだから、それはすごい努力で、食事はフルーツと肉汁だけ、室内にトレーニング用の雲梯みたいのを作っていたし、自慢の髪を洗うのにコニャックに卵を溶いたもので3時間ほどかけていたという話です。鹿鳴館のこと笑えないと思うんです。
 でも、国家主義とか愛国心とかいうときにその実態はなんなのかといえば、それはこんなことでしかないと思うんです。国家っていう、そもそもヴァーチャルでしかないものにリアリティーを与えているものは何かっていったら、「王妃の美貌だ」っておもったその感性は鋭いと思う。
 日本ではそれは、T・フジタニの『天皇のページェント』が報告しているようなことで、天皇の荘厳が国民という意識を作ったし、国民という意識が天皇というあやふやな禁忌をこしらえたと思う。戦争と靖国はそれと歩調を併せてあった。
 で、何が「残念」なのかといえば、そういうことすべてひっくるめて、日本以外の先進国は、もうとっくに19世紀の向こうに脱ぎ捨てたのに、この期に及んでまだそんなことやってんの?っていうのが、「残念」というより言葉もない。
 もともとは、素朴な慰霊のほこらにすぎなかった。でも、今でもそうだというと、ウソなのは明らかで、対外的には、国家の威信を誇るため、国内的には、国民の愛国心を形作るために、それはまぎれもなく政治の道具として使われたし、明治の政治家たちは、はっきりと意識してそれを政治の道具として使っていたと思う。
 でも、それは世界全体が帝国主義の時代だったからだ。今の政治家が「残念」なのは、その政治の道具を現代に活かせていない、どころか、むしろ、政治の障害としてしまっているところ。明治の元勲なら、鹿鳴館同様、靖国なんてとっととつぶしちゃっただろうと思う。
 安倍首相が靖国を参拝したのは、沖縄県知事が普天間基地移転問題を容認したことを受けてなのは明らかで、「これでアメリカに点を稼いだから、行っても文句言われないだろう」と思ったに違いない、その国際情勢に対する意識の低さがとっても「残念」。
 戦没者の慰霊の施設があって当然だという人がいるけど、たとえ戦争による死であっても、人の死を悼むことができるのは、身近な人だけだと思う。国が慰霊する人を選別すること自体がすでに政治的意図を含んでいる。国が戦没者の慰霊施設を作る必要はないと思うし、作るべきではないと思う。
 すべての国葬は、良くも悪くもプロパガンダにすぎない。たとえばマンデラ氏の国葬南アフリカで差別が撤廃されたことを内外にアピールすることになるだろう。これに対して、靖国戦争犯罪者をまつってるんだから、そこに参拝して、平和を祈念とか、誰が聞いたって「はあ?」でしょう。