ショーン、ダズヴィダーニャ

knockeye2016-03-25

 吉本隆明が「転向論」で「転向の問題は、日本では、(略)それは、おおくイデオロギー論理の架空性(抽象性ではない)からくる現実条件からの乖離の問題ににしかすぎない。」と書いていた。
 それ以来、「架空性」について、人の言葉が現実に根ざしているか、あるいは、少なくとも、何らかの現実を目に入れているかについて、すこしは敏感になっているつもりだ。
 というのも、「架空性」は、日本の今の言説の状況を見通すのに有効な言葉だと見えるから。
 たとえば、「靖国」だが、「靖国は日本の伝統」などというのは架空の最たるものだ。靖国は明治になって造られた。明治とは日本の近代化の時代であり、日本の近代化とはつまり西欧化だった。したがって、明治になって造られ、その後、中央集権化の装置となっていった靖国は、その価値をどう言いつくろおうとも、少なくとも、日本の文化や伝統ではありえない。しかも、そんなことは誰でも知っているにもかかわらず、「靖国は日本の伝統」という架空の言説が、ただの戦争推進装置にすぎないあのくだらない神社の存在理由として平気でまかり通る。
 どこに出しても絶対通用しないこうした滑稽な言説が、なぜ日本の国内限定で通用するのか、その架空性は、言論のどんな立場に身を置くにせよ、克服されなければならない特殊な状況であると思う。
 その原因について、もちろん今ここで断定的なことは言えないが、多くの思想の言葉が翻訳語として輸入されて、日本の状況と無理やり接続させられるためではないか。無理やりはめ込んだその時その場所では何とか間に合っているように見えても、時間と空間の延長した先では、ひずみやねじれが大きくなりすぎて。持ちこたえられないのではないか。
 いずれにせよ、こうした滑稽さが、日本の状況には常に付きまとっている。浜野佐知監督の「百合子、ダズヴィダーニヤ」はその滑稽さに着目したユニークな試みだったと思う。 
 で、なぜこんな話を唐突にしているのかというと、ショーン・マクアードル・川上が、ほぼ「クヒオ大佐」であった件について、ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐は結婚詐欺師なので、だまされたのは一般女性だったが、ショーン・マクアードル・川上の場合、それはテレビ朝日報道ステーションであり、フジテレビだった。日本の政治をめぐる言説の重要な担い手である人たちが、整形してハーフを名乗っている詐欺師をコメンテーターとして採用していた。自分たちの言葉を代表させていたについて、なんかちょっと苦笑いしただけみたいな始末の付け方ってのは、どうなんだろう。
 ふたつの考え方があるみたい。
 ひとつは、ショーン・マクアードル・川上は、鋭いコメントをばしばし連発するコメンテーターとしての実力を持っていたので、経歴については調査がおろそかになっていた。
 ふたつは、なかなかの経歴だし、なんかそれらしいことコメントしてるし、あれでいいんじゃないの、と思っていた。
 さて、どちらだろうか?。個人的な考えでは、そもそもテレビのコメンテーターなんて、はてなブックマークにコメントを書くのと大差ない作業で、今回のことは、それがばれちゃったにすぎないと思う。古館伊知郎にしたって、プロレス実況のノリ以外のどんな「実力」を持っているのだろうか。わたしたちはテレビの緩慢な終焉を目撃しているだけなのだろう。
 週刊文春林真理子が書いているコラムにもショーン・マクアードル・川上のことが触れられていた。林真理子は福島でチャリティ・イベントを続けているのだが、そこに氷川きよしに出演してもらったのだそうだ。氷川きよしについて、個人的には、何の感慨もない。林真理子も似たようなものだったそうだが、観客を巻き込むそのパフォーマンスを舞台袖からみていて「本物は違う」と思ったそうだ。
 結局、自分を偽らずに積み重ねてきた勝敗の結果だけが、人の力量として残ると思う。