靖国をめぐるいろいろ

knockeye2013-08-15

 いまだに地デジ化していないわたしがテレビを観るのは帰省したときだけだが、BSの世界各国の報道と、日本の報道を見くらべると、日本のジャーナリストがどんだけぬくぬく生きているかがよく分かる。今、真っ先に報道しなければならないのは、エジプトの情勢だと思うが、海外の報道が、現地から虐殺のなまなましさを伝えているその裏で、日本のニュース番組はというと、花火大会の事故ばっかで、現場にいた素人のスマホ動画を垂れ流している。
 発電機にガソリンをつぎ足すとき、携行缶の圧抜きを忘れて、大事故になりました。
 被害の大小はともかく、ことの顛末は、上の一行で伝わるのに、それを延々やっている。エジプトでは、選挙で選ばれた政府が、軍のクーデターでつぶされ、抗議する市民が殺戮されているというのに、「エジプトでは、イスラム教徒のデモが軍に排除されました」で済ましている。これでは微妙なディテールが何も伝わらない。尺のバランスがおかしい。たぶん、盆休みだし、みんな休みとってるし、暑いし、楽したいし、というホンネだろう。
 それで、靖国神社あたりでカメラを構えて、参拝してくる政治家を狙うことになる。楽な仕事。
 新聞を見ていたら、韓国紙の記事らしいのだが、「日本の政治家は、いつまで日本を靖国に縛りつけておくつもりか?」というのが目に入った。お言葉だけれども、日本では、薩長の田舎者が建てたあんな神社に、だれも縛り付けられていない。靖国ってのは、そのへんの神社、以上でも以下でもない。信仰というより、土着の習俗で、普遍的な価値などないが、だからといって、たかが神社にめくじらたてることもない。
 靖国にへばりついて離れられないのは、むしろ、韓国の方だと思う。いいかえれば、靖国というイデオロギーを必要としているのは、韓国の方なのだ。
 中国戦略文化促進会常務副会長の羅援氏という人が、チャイナネットの日本語版に書いている記事があって、マルクス主義者のものとは思えない言葉だが、「日本の政治家が拝んでいるのは神ではなく鬼だ」という見出し。しかし、おそらく神道においては鬼も神も大差ない。その程度に原始的な習俗なのである。
 わたしは、だから、目くじら立てることもないと思うが、羅援氏が書いていることで、説得力があると思うのは、A級戦犯の合祀はやめろという点。これに関しては、まったく同意見だ。現に、昭和天皇も、A級戦犯の合祀に不服で、それ以来靖国を参拝していない。この点は、昭和天皇という人に政治的なセンスがあったと思う。
 平成天皇もそれを継承している。わたしの意見では、神道全般に対しては、天皇はもっと現実的な影響力を持っていていいように思う。すくなくとも、靖国に関しては、天皇A級戦犯を合祀すべきではないと考えているなら、その意向が反映されるべきではないか。そのあたり、右翼の連中はどう考えているのか。本来なら、天皇の意向に逆らって、A級戦犯を合祀した某は、国賊扱いしてもいいはずだが、どうもそうではないらしいのは、この一事をとっても、右翼という連中が、愛国をとなえつつ、じつは、天皇の権威を僭称した、戦時中の軍部の継承者だとわかる。そして、そうした僭称を可能にした明治憲法を復活したい連中が、どういう輩かもまたわかりやすい。
 これもたまたまお盆の帰省中にテレビを観ていたら、池上彰の番組に、平成天皇の会見が出てきて、「明治憲法国家元首というあり方より、象徴天皇という現行憲法のあり方の方が、伝統的な天皇のありかたに沿うている」という発言をしていた。これは、白洲正子について書いたときに、このブログにも書いたそのままで、自分がまっとうだと思って書いたことを、ご本人がそのまま、まっとうだといってくれると、やはりうれしい。
 重要なのは、中国や韓国、また、アメリカが何を言おうが、わたしたち自身が、先の大戦をどう総括したかで、明治憲法統帥権を利用して、軍が暴走し、それを政治が制御できなかったというのが、先の戦争についてのわたしたちの総括だったはずだとすれば、A級戦犯の合祀はやはりおかしい。
 今まで何度も書いてきたから、改めて書くのも何だけれど、わたし自身は,浄土真宗門徒なので、どっちにしたって,靖国なんかに参りはしないのだけれど、ただ、神道だろうが、仏教だろうが、キリスト教だろうが、イスラムだろうが、あるいは無神論者だろうが、すべての宗教は,所詮、迷信であることを否定しない。ただ、死者を冒涜することは,人間の尊厳を冒涜することだから、死者を弔うのに,何らかの形式が必要だ、というにすぎない。
 その形式として、日本国としてのそれは、明治以降、靖国という形式をとってきましたということ。だから、そこに、A級戦犯にせよ、BC級戦犯にせよ、合祀されているからといって、それは現世的な価値にすぎないのだから、あまり過敏に反応することは、かえって、参拝ということに,素朴な慰霊以上の意味,イデオロギーをもたせることになると思う。あるいは、そういうイデオロギーをそうした慰霊の形式に付与しているからこそ、過剰に反応するのだともいえる。
 それは、中国のように官製デモのようなことが可能ではない程度には、日本の社会が成熟しているということを,中国の政治家が、理解していないことを示しているとわたしには見える。 
 それから、前に書いたニューズウィークのコラム、やっとアップされたので、紹介しておきます。


<嫌韓デモの現場で見た日本の底力>
レジス・アルノー