「東ベルリンから来た女」

knockeye2013-01-27

 昨日、横浜美術館で思ったより長居してしまって、見るつもりだった映画をとばすことになった。
 渋谷のBunkamuraル・シネマで上映中のこの映画は、この週末の候補にあがっていたひとつだった。
 ベルリンの壁崩壊前夜の東ドイツのお話。こういう映画が作られる背景としてまずは、ドイツが東西に分裂していた時代が完全に過去になったということがあるだろう。再分裂の危機とか、旧東西国民間の軋轢とかは、もうそんなに熱い話題ではないということが、逆にまず理解できたりする。
 ところで、偶然なんだけれど、日経WEBに

という、池上彰が東西冷戦について語っている記事があり、これがおもしろかった。この映画の背景を知るのに役立つと思う。ただ、有料会員限定なので、日経WEBを購読していない人は読めないのだけれど、日経になりかわって宣伝するいわれはないものの、日本で最初にWEB版の新聞をスタートさせたのは日経だったと思うし、手放しで誉められるマスメディアはないという前提でだが、他の大新聞にくらべると、すくなくとも世論誘導的な記事は少ないと思う。紙の新聞をとっている人はちょっとお試しになってはいかが。すくなくとも、資源ゴミを出す手間は省ける。
 そういえば、ニューズウイークの英語版も紙の媒体としては終了してWEBだけになった。日本版はまだ販売されているけれど、これは日本ではタブレットの普及が進んでいないからだろう。
 ニューズウィーク日本版にこの映画の監督クリスティアン・ペッツォルトの短いインタビューが載っていた。好きな日本の映画監督に、鈴木清順宮崎駿小津安二郎をあげている。
 東ベルリンから来た女‘バルバラ’(実は原題は「バルバラ」)を演じたニーナ・ホスと組むのは5作目なんだそうだ。

 彼女は亡命先で生きているような女優。どこにも属していないが、どこかに属したいと思っている。そんな不安定さがある。この映画にはたばこを吸う、注射をするといった場面があるが、彼女にはそんな「動き」の中から出てくる自立した美しさがあるんだ。男性から見てきれい、セクシーというのとは違う。

 バルバラは、状況をどうにか生き抜くサバイバル能力という点ではランボーだが、かのじょは自分の置かれている状況を相対化できる視野もまた同時にもっている。ランボーより冷めている。西ドイツの恋人の手引きで亡命の手はずが整いつつある。
パンフレットの監督インタビューにはまた

 リハーサル中に、ある女優がこんな話をしてくれた。1970年代末に西側での公演を利用して東ドイツから脱出を図った彼女は、自分がいないとわかっている日の食事の招待を受けるはめになった。脱出すれば二度と帰れない。そのときのおそろしい孤独を彼女は忘れられないという。

 ただ、それでもその女優は亡命を選んだのだし、その価値観についての共通認識は、おそらくドイツではゆるがないのだろう。そう考えるとこの映画のラストは、この映画をラブストーリーととらえるわけにはいかないとすれば、彼女は結局孤独を覚悟したというふうにわたしにはみえてしまった。