「少年H」、「パシフィック・リム」、「風立ちぬ」原画展

knockeye2013-08-10

 「少年H」と「パシフィック・リム」を続けて観た。
 「少年H」は、少年のキャラクターが曖昧だった気がするけど、それでも、水谷豊は、お金を出して損しない役者さんだと思ったし、それに、夫婦共演ってどうなのかしらと思っていたのだけれど、伊藤蘭には、やっぱり花があって、むしろ、実際の夫婦っていう重みが、映画の味わいを深くしているようで、この役者夫妻に助けられた映画だと思いました。それにしてもラストシーンはちょっとだけれど。
 わたしは、神戸の言葉と大阪の言葉の違いが分かる程度には関西人なんだけれど、伊藤蘭の関西弁はうまかった。水谷豊の役どころは、居留地の外人さん相手の洋服屋さんだから、あの言葉の感じはあれで自然だと思う。コテコテだとかえっておかしい。関西人はみんな漫才師みたいなしゃべり方と思っているかもしれないけれど、そうじゃないから。
 あらためて思ったのは、神戸の空襲にしても、東京の空襲にしても、広島、長崎も、平気で非戦闘員の頭上に爆弾をまき散らしていた時代だった。東京大空襲に携わった兵士の証言、みたいのをテレビで見たことがあるけれど、「ジャップを焼き殺してやったぜ」みたいなことでした。で、そのアメリカが、いま、慰安婦について議会で非難決議って、ただの日本人差別だろうとおもいます。どう考えても、事の軽重のバランスがおかしい。
 なんどもいうように、当時の日本の朝鮮人差別がひどかったのは事実なんです。しかし、それは1940年代。 敢えていわせてもらえれば、米兵が、飛行中のヘリからベトナム人捕虜を突き落としたり、枯れ葉剤をまいたりしていたのは1970年代、中国で紅衛兵の少年が、老人の鼻を削いでなぶり殺しにしていたのも同じく70年代。
 しかも、渡辺一枝の『消されゆくチベット』を読んだけれど、亡命中のダライ・ラマが、パンチェン・ラマ11世と認定した、ゲンドゥーン・チューキ・ニマという6歳の少年が、両親ともども中国政府に拉致されたのは1995年のことで、今にいたっても行方が知れない。
 チベットのことはなかったことにするつもりなのか、アメリカはお国柄、人権意識も至ってプラグマスティックみたい。川田文子にいわせると、日本人の政治家よりとても人権意識が高いそうなんだけれど。いずれにせよ、今回の米議会の「非難決議」で、アメリカの‘人権意識’の味わいがわかったので、それはよかったと思っている。
 川田文子と石原慎太郎を並べてみると、日本で左翼、右翼と言ってるのは、アメリカかぶれか、欧州かぶれか、言い換えれば、‘戦後的な西欧派’と‘明治的な西欧派’の諍いにすぎないとわかる。
 白洲正子が指摘していたように、そういう外来文化が、真に日本的なものにこなれるには、時間が必要だろう。その時間がわたしたちに残されていればいいのにと切に願う。今求められている態度は、廃仏毀釈ではなく、本地垂迹なのである。
パシフィック・リム」は、メキシコ人監督の手になる‘日本文化へのオマージュ’。太平洋の裂け目から‘怪獣’が出現するっていうのがすでにゴジラ
ゴジラがアメリカで公開されたとき、水爆実験の影響で誕生したという、そもそもの発端がカットされたのはよく知られている。日本にとって、ゴジラは戦災のメタファーであり、そのメタファーは必然だった。ハリウッドがゴジラのリメイクに失敗し続けるのは当然だといえる。それはつまり、戦争をめぐる歴史解釈の齟齬なので、この太平洋の裂け目を超えるには、それなりの覚悟が求められる。今回のこの映画に「パシフィック・リム」(環太平洋)というタイトルを与えた、ギレルモ・デル・トロ監督には、おそらく、その覚悟があった。
「怪獣は自然界や異星からやって来た様々なものを象徴する存在。僕にとってはある種の“言語”とさえ言える。西洋には怪獣を愛する文化はないけど、日本にはそれがある。ゴジラキングギドラの対決でも、多くの人が僕と同様に(ゴジラだけじゃなく)キングギドラのことも愛してる。善悪やモラルのジャッジではなく、そこにあるのは愛なんだ!」
「美意識というのは時に政治的な意味やイデオロギーを帯びてしまうもので、クールなロボットは軍事力のコマーシャルのように映ってしまうけど、僕はそれを避けたかった。僕が見せたいのは“ロマンティック・クレイジー・アドベンチャー”さ(笑)。」
2人のパイロットが神経をシンクロさせてロボットを操るという設定は、監督が「譲れない絶対条件として最初に決めたこと」だという。
「映画のテーマは信頼。同じロボットに乗ったからにはどんなに仲が悪くても互いを信頼しなくちゃいけない。我々人類もまた、ひとつのロボットにみんなで乗り込んでいると言える。それは痛みや反応を共有することでもある。主人公のローリー(チャーリー・ハナム)は兄をなくした喪失感を持っているけど、マコ(菊地凛子)とシンクロした時に彼女の記憶を共有し、自分以上の哀しみと喪失を味わった人がいると知る。そこで信頼が生まれ、彼女を守ろうとするし、それは自分自身を救う行為でもあるんだ」
芦田愛菜のシーンは、全編を通じて、最も印象的で重要なシーンだろうと思う。あのシーンがストーリー全体の核なのだ。
かっこいいのは、なんといっても、香港での戦闘シーン。あそこが優れているのは、イェーガーと怪獣、その足元で怪獣の脳を求めつつ逃げまどっているハカセ、そして、コックピットのパイロットたち、のアイレベルの転換がみごとで緊張をとぎれさせない。
ところで話は変わるが、横浜そごうで「風立ちぬ」の原画展があったのでいってきました。会場に「ひこうき雲」が流れていて、映画を観ていたときよりかえってぐっとくるものがあった。
展覧会の図録というつもりで『ジ・アート・オブ 風立ちぬ (ジブリTHE ARTシリーズ) [大型本]』というのを買った。鈴木敏夫の文章によると、宮崎駿は絶対に反戦派である一方で、誰よりも戦争に詳しいのだそうだ。
ギレルモ・デル・トロの言葉を借りて、イメージを通して語られる“言語”があるとすれば、その言語では、リアルはヴァーチャルの部分にすぎないから、戦争は現実の戦争ではなく、したがって、戦争と反戦が矛盾しない。こうした幻想と現実の二重構造は、実は、すべての人が共有している。だからこそ芸術が存在するのだし、「こころ」とわたしたちが呼び習わしているものは、ほとんどの場合、この幻想だろう。
この言語の対義語はおそらくイデオロギーで、イデオロギーのためにこの言語にアクセスできないとしたら、その人の生活感情はひどく貧しいだろうと思う。

消されゆくチベット (集英社新書)

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チベット (1982年) (岩波新書 特装版)

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