「共喰い」

knockeye2013-09-28

 映画「共喰い」を観てきた。監督が「サッド・ヴァケーション」の青山真治、脚本は「赫い髪の女」の荒井晴彦というのをうかつに見逃していた(それを早く言ってよ)。封切りからしばらく経ってて、みなとみらいの109シネマでは今週が最終だった。あぶないとこだった。
 「共喰い」、今年観た映画では最上かもしれない。光石研と田中裕子がすごい。
 でも、これ、荒井晴彦青山真治に「共喰い」どう?って持ちかけたそう。光石研も原作を読んですぐに青山真治を思いついたと言っている。たぶん青山真治でなければ観にいかなかった。それに、いくつかのインタビュー記事を覗いてみると、撮影に関してはほとんど今井孝博に任せていた。シネマスコープなのだけれど、それも彼の提案だそう。よいスタッフが青山真治のまわりにいつのまにかいて、それでよい作品ができあがるっていう、まあ、傍目のイメージだけれど、そんな感じが頼もしい。
 今回、ナレーションが気持ちいい。ナレーションが光石研って途中で気が付いた(これは私が鈍すぎるかもしれないけど)。田中裕子の左手のエピソードが、ナレーションから映画全体を通してだんだんと映像に変わっていく、その最後のシーンは(ネタバレになるからぼかして言うけど)、昭和で、下関で、っていう時間と空間の距離感があるから成立するぎりぎりの虚構で、あれも美術の清水剛が図面を引いた創作なのだそうだ。
 映画(にかぎらないかもしれないが)って、やっぱりこういうチームプレーのよさを味わう楽しみも大きいと思う。野球を観ているみたいに、いまのセカンドのポジション、ナイスプレーだったなとか。
 原作の田中慎弥は、うなぎが原作と違うシチュエーションで描かれているのを観て、「ああ、やられた、と思いました。この場面はこういう風に描かれるべきだった。だからこそあのクライマックスが成立するんじゃないか、と悔しくなりました。」と、コメントを寄せている。
 それから光石研のペニスだけれど、あれも美術スタッフが股間を前にああでもないこうでもないと始めちゃって芝居の空気がゆるむだろって監督に怒られたそう。
 愛人の琴子を演じた篠原友希子もすごくよかった。田中裕子、篠原友希子、それから、主人公のカノジョの千種を演じた木下美咲と、三世代の女性がそれぞれすごく魅力的に描かれている。ロカルノ国際映画祭でYOUNG JURY AWARD最優秀作品賞とボッカリーノ賞最優秀監督賞をダブル受賞しているが、青山真治によると、いちばん印象的だったのは、現地に女優が来ていない、と怒って帰った人がいたそうで、たしかに、そのくらい女性が魅力的な映画。木下美咲のいちばん最後のセックスのシーンは、やっぱAVじゃなくて映画でセックスを撮るならこうでなくちゃなというよいシーンだった。
 昨日かの新聞に、だれかが宮崎駿の「風立ちぬ」について、日本の映画は(映画に限らないかもしれないと思うのは漱石の「こころ」とか、その人もあげていた村上春樹などを思うからだが)、男の成長を描ききれないと書いていて、宮崎駿は最後に男の成長を描いたんだと書いていた。でも、成長したかな?、あの堀越二郎は。
 河合隼雄が、日本人の原形を「永遠の少年」と言っていたことがあった。また、川本三郎が日本文学とアメリカ文学は少年性を共有しているとどこかに書いていた。(どちらも曖昧な記憶ですみません。)
 女がこんなに魅力的なのに、男は、子供か暴力としてしか存在できないのは、社会が未熟なのかもしれないと思ってみた。だから慰安婦問題ごときであたふたするのだと思う。どの立場の人も大人の反応をしていないように見える。
 小説の中の「昭和63年が終わる」という言葉から、こういう後日譚を紡ぎ出した荒井晴彦はレベルが高いと思う。その時代の空気は、冒頭からたしかに流れていたものだった。