保阪正康と半藤一利の対談『そして、メディアは日本を戦争に導いた』を読んだ。
先日も、読売新聞の‘子供だまし’めいた誘導報道について書いた。
私が新聞を報道機関として信用しなくなったのはいつかと思い起こしてみると、松本サリン事件だと思う。松本サリン事件は、いまではオウム真理教の仕業だとわかっているけれど、事件当初は、第一通報者の河野義行が、長野県警とそのリーク記事を垂れ流すマスコミによってほぼ犯人扱いされていた。
いまwikiで「河野義行への謝罪」という項目を調べてみたが、マスコミの対応について
「マスコミ各社は、誌面上での訂正記事や読者に対する謝罪文を相次いで掲載したが、河野への直接謝罪はほぼ皆無である(久米宏が当時「ニュースステーション」の中継対談で番組の“顔”として詫びたのみ)。また前述の『週刊新潮』の謝罪は今もってない。なお、報道各社の社員個々人による謝罪の手紙については河野のもとに多数届いたという。」
とある。
面白いのは
「オウム真理教は、アレフへ再編後の2000年に河野に直接謝罪した。」
とある。オウム真理教が謝っても、マスコミは謝らない。
ともかく、あの事件をきっかけに新聞の定期購読をやめた。この判断は正しかったなと思っている。
戦時中の新聞が、戦争を批判するどころか、むしろあおり立てたことは、今ではよく知られていることだと思うが、それよりも、わたしがなるほどと思ったのは、
戦後になってからはかわったのかというと、「朝日新聞」が戦後民主主義の論理を書き続けてきたというのも、実はそう書くことで新聞が売れたからだという言い方もできます。
という保阪正康の発言。
戦後民主主義のうさんくささは、よくいわれる‘アメリカの押しつけ’とか、そういう問題ではなく、本質的な理念が空洞で、言論の中心が「そう書けば売れる」ということでしかないことなんだと、気がついた。
売れるから書く。民主主義的な言論が売れる、よいことではないか、といえるだろうか。私はそうは思わない。今、こう書けば売れる、だから、こう書く、が、民主主義的な言論だとは思わない。
たとえば、今週の週刊現代の書評欄に『国家のシロアリ』という、福場ひとみの著書が紹介されている。評者は長谷川幸洋。
この本は、東日本大震災の復興予算が、復興と全く無関係の事業に流用されている実態を丹念に調べて報告しているのだが、この著者がそれに気づいたのは、インターネットに公開されている政府の資料をきちんと調べたからだった。
私はここに、いまのマスコミが抱える大きな病がある、と思っている。彼ら(大手マスコミ)は自分の問題意識を軸にして政府の情報を監視していない。特定秘密保護法をめぐって「政府が情報を国民の目から隠すのか」と大騒ぎしたが、本当は特定秘密どころかネットの公開情報すら読んでいない
つまり、松本サリン事件以来、なんら変わっていない。警察からリーク記事をもらって、それをそのまま書く。それだけ。ここには、長谷川幸洋が「自分の問題意識」といっているジャーナリストとしてのスタンダードとか、報道にさいしての倫理といった、本来「軸」になければならないものが欠如している。ここにはまさに、大前研一がマスコミを評していった「高見の見物の大衆迎合」しかない。
また、この本を読んで衝撃を受けたのは、五・一五事件のグロテスクさだ。
犯人の将校たちは軽い刑ですんだだけでなく、マスコミからは「義挙」とたたえられ、一般の国民からは減刑嘆願書が100万通を超えて届いた。
一方、殺害された犬養毅首相の娘さんは、当時、近所に米を買いに行っても売ってくれなかったそうだ。
今、読み返してみると、ここに松本サリン事件への言及があった。河野義行さんが犯人でないとわかった後も、匿名の電話がかかってきて、「おまえは死ね」と言ったそうだ。
- 作者:福場 ひとみ
- 発売日: 2013/12/12
- メディア: 単行本