戦後民主主義と慰安婦問題

knockeye2014-03-07

 昨日の記事を書いていて、「戦後民主主義」と民主主義のあいだに隔たりを感じない人は、「従軍慰安婦問題」と慰安婦問題も同じに考えてしまうだろうと思い至った。
 慰安所慰安婦の存在を否定している論者(まともな)はいない。戦時下の、公娼制度の許で、踏みにじられた女性がいたことは、軍部が国政を牛耳っていた時代の、その他もろもろの多くの問題と同じく、私たちの国の雪ぎがたい恥の歴史だ。
 なので、太平洋戦争当時、アジアで起こったすべての不幸について、「日本が責任を負う」といえれば、かっこよかっただろうし、そうしていれば、「日本国民もまた、吹き荒れた軍国主義の犠牲者だ」というストーリーに傷がつくこともなかっただろう。
 そう考えると、1990年代に「従軍慰安婦問題」が取りざたされたとき、当時の政府はどうしてそういう態度をとらなかったのかなと、不思議に思うこともあった。
 しかし、ここ最近、とくに橋下徹の発言以来、少し詳しくこの問題に首を突っ込んでみて、あの、奥歯にものの詰まったような、河野談話の表現が、じつは、読みようによっては、正確といっていい、事実を語っているとわかったが、にもかかわらず、どこかはぐらかされているような感じがするのは、ただ一点、「従軍慰安婦」に関して「熱心に報じた」当初の朝日新聞の記事はウソだと、ひとこと書いていないためだった。
 つまり、河野談話をもっとぶっちゃけた調子で書き換えれば、
慰安婦についてしらべました。悲惨な実態で、だまされて連れてこられたりとかのケースもあったみたいなんですけど、ただ、‘奴隷狩り’みたいな話あるじゃないですか?あれ、ウソっす。だから、せっかく怒ってる人にこういうこというと、火に油なのは重々承知ですけど、国家の関与?、ないっすね(笑)」
となる。
 だけどそうは言えなかったわけだった。向こうはかなり怒ってる感じだし。
 だから、重ねていうけど、河野談話を再検証すれば、朝日新聞の虚偽報道に行き着く。
 しかし、そもそも、朝日新聞が、なぜ、元軍人のほら話を、裏付けもとらずに記事にしたか、それだけでなく、「熱心に報じた」かといえば、朝日新聞が、戦時中に行った戦争協力の責任について、読者に謝罪していない「負い目」があるからだと思う。だから「軍部がひどいことをした」という証言を目の前にぶら下げられると、クスリの切れたヤク中同然、中身も確かめずに飛びついてしまう。結果はずいぶん高いものになった。自業自得ならいいが、つけは国民全体が払わされている。
 戦後民主主義の担い手が朝日新聞であるならば、そのお粗末さは、「従軍慰安婦」報道のお粗末さとよく似ているのだろう。
 安倍首相は「戦後レジームの見直し」といいつつ、靖国に参拝してしまった。それでは、「軍国主義への回帰」ととられても仕方がなかった。
 そこで、もういちど、時計の針をもどして、橋下徹慰安婦問題を口にした時のことを考えてみると、彼は、安倍首相が「侵略の定義」云々の発言をしたのを受けて、「侵略は認めるべきだ」という発言をしたのであり、その但し書きとして、「ただ、何でも謝るのではなくて主張すべきは主張すべきだ」という流れで慰安婦問題に触れたのだった。
 わたしはこの第一報にふれたとき、発言の全体像をそう理解したし、そこに何の問題も感じなかった。
 のちに、週刊文春に、例の「慰安婦は必要だった」という、発言の、おそらく、取材テープをそのまま文字に起こしたのだろう、記事を読んだ。記者は、「誤解しようがない」と書いていたが、ぶら下がり取材の発言は、声明でもなければ、所信表明演説でもない。そのときの状況、質問した記者との関係、それ以前に交わした会話とのつながり、など、文章がそれ自体で完結していず、外側に膨大な文脈を抱えている。
 取材テープを録るのはいいとして、それを記事にする場合は、その記事が取材対象の発言意図と合っているかどうか確認すべきだろう。今回のように本人がそういう意図ではないといっているのに、「いや、言ったじゃないか、ほら、テープに録ってある、だから、これが真実だ」が、今の新聞記者の‘取材’らしいのだが、だとすれば、新聞記者は要らない。ICレコーダーのファイルをそのままアップする方が間違いがない。
 つまり、橋下徹のあの発言は、「戦後レジームの見直し」について、安倍首相と彼のスタンスの違いを語ったものだった。だから、わたしはあの報道に接したとき、橋下徹に可能性を感じたわけだったが、日本の報道機関で、そういう反応を示したものはせいぜい、東洋経済くらいで、他の報道は「橋下徹慰安婦は必要だといった」という(そんなわけないだろ?)幼稚なものだった。
 もちろん、橋下徹の弁明もうまくいかなかったのは確かだが、言論機関であるなら、失言をあげつらうのに血道を上げるのではなく、発言の真意がどこにあるかを、明確にしていくことこそ、本来の役割ではなかったろうか。
 報道の存在意義は、本来、権力の監視にあるはずだが、今は、報道自体が、ひとつの権力となって、一般国民の権利を侵害するケースが目立ち始めいる。たとえば、松本サリン事件の河野義行さんに謝罪した報道機関はひとつとしてない。高遠菜穂子さんの例もある。
 わたしに「軍靴の響き」を思わせるのは、安倍政権よりも、警察と癒着した新聞の暴走の方である。