「そこのみにて光輝く」

knockeye2014-09-14

 アミュー厚木で「そこのみにて光輝く」がかかっているので観にいった。
 ロードショーでやっていたときも観にいこうかどうか迷ったのだけれど、自分のカンを信じ切れなかったこともあるけど、それより、テーマを考えると、はずしたときにあとにひきずりそうでびびったのである。
 佐藤泰志の小説では、これも映画になった『海炭市叙景』を読んだ。海炭市という、おそらくは、作家の故郷である函館をモデルにした地方都市を舞台にした、場所と時代だけを共有する短編集。
 短編集だから、未完という言い方は当たらないと思うのだが、ただ、作家がこの執筆中に自殺してしまったといういきさつがあり、身近だった人たちによると、年明けの事件から始まったこの連作短編集を、作家の意図は年の終わりで締めくくるつもりだったらしい。
 しかし、実際の作品は夏の初めで終わっている。その意味では未完と言えるのかもしれないけれど、それはなにか「死児の年を数える」といった心持ちなのかもしれない。
 映画版「海炭市叙景」も、DVDで借りて見始めたが、最初のエピソードがよくないと思った。
 事件は原作と同じなんだけど、私見では、あれは、妹がロープウェーの麓でじっと待っている、その長さが重要なので、そこを描かなきゃダメなんだと思う。
 「そこのみにて光輝く」は、原作をまだ読んでいないが、こうした密度の高い言葉の世界に、逃げも諦めもせずに、深く踏み込んでいった、呉美保監督の健闘を讃えずにおれない。
 たとえば、池脇千鶴を乗せた高橋和也の車が止まった後、しばらく、まるで静止画のように画面を動かさなかった、あの演出には、監督の覚悟のほどを感じた。
 役者も、主演の、綾野 剛、池脇千鶴をはじめ、菅田将暉高橋和也伊佐山ひろ子火野正平、全員すばらしい。
 時代が現代に置き換えられているけれど、佐藤泰志が自殺した1990年には、インターネットはおろか、携帯電話さえまだ普及していなかった。
 それから24年がすぎ、誰とでもつながれるようになった今の方が、言葉が空疎になり、届かなくなったように思える、とすれば、それはたぶん錯覚だが、この映画の、濃密で簡潔な生の言葉の世界は、たしかに失われた世界であるかのように見える。それは、この映画の力だろう。
 ところで、函館は美しい町という印象は、たしかに個人的な記憶にも残っている。といっても、私が北海道をバイクで旅したころは、それももう前世紀のことになるのだけれど、短い夏が終わる頃の函館の朝早く、海沿いの道を延々と走った、あのときの空と海の色が、私にとっての函館だが、今も変わっていなければいいがなと思う。



海炭市叙景 (小学館文庫)

海炭市叙景 (小学館文庫)