エリート意識としての慰安婦問題

knockeye2014-09-13

 大前研一が日本のマスコミを「大衆迎合の高見の見物」と評した言葉が気に入っていて、わたしはこの国の新聞テレビの類でうるさく報じられることの多くはこれだと考えている。
 しかし、朝日新聞がさらに質が悪いのは、「大衆迎合」の部分を「大衆扇動」と変えなくてはならないところ。
 吉田調書の誤報を謝ったついでに、慰安婦報道の虚偽についても謝罪していたが、つまり、検証記事で謝罪しなかったことを謝罪したわけで、さらに、その謝罪しなかったことを批判した池上彰の記事を一時不掲載にしたことも謝罪したわけだから、何重に謝罪してるかわけがわからない。文字通り「幾重にも」お詫びしている。
 検証記事の記者会見の時に「歴史的事実は変わらない」と言ったのは撤回するのかしないのか、いずれにせよ、歴史的事実が不変だなどと主張できる権利は何人にもないはずで、ましてや、32年間、虚偽を放置してきた新聞社が口にするべきことではない。
 この32年間、慰安婦についての認識は、朝日新聞が放置してきた虚偽によって、バイアスを受け続けてきた。これは実のところ、「虚偽を放置してきた」という言葉の言い換えにすぎないのだが、にもかかわらず、河野談話にも、国連報告にも、米国議会決議にも、朝日新聞の虚偽報道が影響を与えていない、などという意見があるのだが、クレオパトラが鼻で笑うだろう。
 とくに、韓国世論に与えた影響は計り知れない。その意味で、日韓関係に及ぼしたダメージははてしなく大きい。
 以前に紹介したハフィントンポストの記事で、韓国の大学生が「日本はなぜ謝らないのか」と首をかしげていたが、私自身も、それが一般の日本人の意見かどうかはわからないが、「なぜ、謝らないんだろう」と不思議に思ってきた、「謝ればいいじゃないか」と。
 しかし、河野談話の再検証と今回の朝日のごたごたを通じて、裏の事情がわかってしまうと、いつもは日本の官僚に批判的になりがちな私としても、「これでは謝りようがなかった」と思わざるえない。世間に流布されている報道は虚偽であり、宮沢政権の態度は好意的に見ても「政治的な妥協」であるにすぎず、ろくに裏付け調査すらしなかった。
 この状況でもし謝罪していたら、慰安婦をめぐる虚偽は、取り返しのつかないことになっていたはずだ。現に、河野洋平河野談話とは無関係に、勝手に謝ってしまったために、その謝罪が、「強制連行」の証拠とされることもある。
 国民を代表して国政に携わっている立場でありながら、まったく裏付けもとらずに、謝罪するといったことが、河野洋平という人になぜできたのかは、興味深い問題かもしれない。
 しかし、私の推論では、この人もまた「高見の見物」のひとりだろう。当事者意識が欠如している。自分の問題としてとらえていれば、まったく裏付けもとらずに、謝罪したり、記事にしたりできるだろうか?。生来身につけてきたエリート意識で、自分だけは別で、生まれつきの免罪符でも手にしているつもりなのだろう。
 先日も紹介した週刊SPA!で、坪内祐三鶴見俊輔の発言を紹介していた。
「もし従軍慰安婦によって気持ちが満たされた少年兵がいたとして、私はその少年兵の気持ちを否定することはできない」(『期待と回想』1997年)。
 1997年なので、まだ「従軍慰安婦」という言葉が使われている。
 慰安婦と寝た兵士たちの多くは、慰安婦と同じように、権力によって戦地に狩り出された人たちなのだ。
 私が言いたいのは、河野洋平も、朝日新聞も、人々を戦場に追いやった側のものたちではないのかということだ。
 戦時中は、権力と言論で人々を戦争にかりたてた連中が、戦後は、嘘か真か分からないことで、というより、嘘か真かを調べてみようともせず、何様のつもりで謝罪しているのか。
 そうして、秦郁彦のように、実際に済州島で現地調査をして、間違いを指摘した人に向かっては、「極右」、「ファシスト」と罵倒する。
 これのどこが「リベラル」なのか私には分からない。
 戦時中に、戦争を反対した人に向かって「非国民」と罵倒してきた態度に、むしろ近いように思う。