日本人が愛した官窯青磁

knockeye2014-09-18

 サントリー美術館で、「ボヘミアン・グラス」、東京国立博物館で、「日本人が愛した官窯青磁」、東京国立近代美術館 工芸館で「青磁のいま」。
 ガラスと青磁の違いは、そのまま、西洋と東洋の違いかもしれない。
 そもそもガラスへの憧れから作られ始めた中国の磁器であるが、青磁の「秘色」とか「雨過天青」などという美しい青を発見してから、ガラスのことは忘れてしまったように見える。青磁の青は、ガラスを透かしてみる空の青色を、そのままたたえているように見える。
 青磁が、玉壺春のような、左右対称の完璧なフォルムを求めるのは、そういう虚構の空のような、うつろいゆくもの、不完全なものを閉じ込めようとする、呪術めいた思いなのかもしれない。
 サントリー美術館ボヘミアン・グラスは、閉館まで一時間しかない、あわただしい時間にすべりこんだのだが、思ったより展示品が充実していて、もう少し余裕を持ってくればよかったと後悔した。
 一般に、東洋の文化と西洋の文化を比較して、東洋は、非対称なもの、不完全なものを志向するのに対して、西洋はシンメトリーなもの、完全なものを志向するといわれることがあるが、ボヘミアのガラスたちを観ていると、そこは曖昧になっていく気がする。
 というのは、ガラスそのものが、そもそも不完全さを内在しているのだし、透明であることは、そこに注がれる液体によって、常に姿を変えることを意味している。
 素材のあやうさが、フォルムの完全さを求めたといえるかもしれない。
 日本においての青磁のありようは、言葉のありようでもある。たとえば、「砧青磁」とは、何かと言ったとき、その語源も含めて正確に答えられる人はいないらしい。しかし、「砧青磁」は現に存在している。
 たとえば「修内司」という言葉がある。南宋官窯の最上位の窯らしいが、まだ、窯址の特定にはいたらないらしい。それでも、日本では「修内司」と伝来してきた青磁がある。
 それは、たとえば、「井戸」とか「三島」とかと同じように、私たちの国の美の伝統の中に、生きてきた青磁として、そうした呼称がある。面白いのは、そうした伝統的な分類と、考古学的な分類が、ずれているのは当たり前としても、あんがい、微妙に重なっていたりすることだろう。
 それから、今回初めて知って驚いたのは、米色青磁と呼ばれる青磁は世界に4つしかなく、そのすべてが日本にあるそうなのだ。「米色」というこの呼称は、日本人が伝統的に呼び慣わしてきたものだが、青磁が「雨過天青」と空の青であるならば、この黄褐色の青磁は、たしかに稲穂の色でなければならないだろう。その感覚は、青磁の美しさを本質的に理解していると思う。
 東京国立近代美術館 工芸館の「青磁のいま」は、古い中国の青磁から、現代の作家までさまざまな青磁を展示している。宮川香山板谷波山、宇野宗甕といった人たちはさすがだと思ったけれど、若い人の作品には、「青けりゃいいってもんじゃない。ポリバケツか」と、私なんかには思えるものもあったけど。