ピエール・シャロー、ジョージ・ネルソン、磯崎新

knockeye2014-09-20

 ビエール・シャロー、ジョージ・ネルソン、磯崎新を、汐留ミュージアム、目黒区立美術館、ワタリウム美術館で。
 パリのサン・ギョーム通りに今も残る、ピエール・シャローのガラスの家は、古いアパルトマンを改築するに際して、住人が立ち退きを拒否した最上階を鉄骨で支えた結果、構造上の制約がなくなった外壁を、ガラスのブロックにしたのが外観の特徴だが、それだけでは、この家が伝説になることはなかった。
 「シャローの住宅は静的なものではない。この住宅は写真的ではない。映画的なのだ。それを味わうには、空間を回遊しなければならない」、ポール・ネルソンという人が、この家をそう評した。家を、動的で、映画的だと評する感覚は新しいと思う。
 もともと家具から建築へと進んだピエール・シャローが、暮らしのディテールから家の全体像を構築していると考えるのは無理のないことだろう。彼の代表的な作品が、独立した建築ではなく、改築物件だということにも何かしらの意味あいを感じさせる。第一次世界大戦後の世界で、暮らすとは、どういうことなのか、あるいは、どうあるべきなのかについての切実で具体的な思考が、結局、このガラスの家だった。彼の感心は、具体的な暮らしにあって、モノとしての家にはなかった。だからこそ、第一次世界大戦後の危機感を共有する、同時代の批評家たちに圧倒的に支持されながら、つい最近まで忘れられた存在であった。
 第一次世界大戦からまだ100年しか経っていない。ピエール・シャローが建築について考えたことの多くは、現代人の生活に直接につながっているように思う。特に、日本の今の、空き家率14パーセントにもかかわらず狭小住宅が乱立する状況は、個人と社会、都市生活と住宅、個人と家族、地方と中央、などのそれぞれの関係性について、ほぼ完全に思考停止に陥っているように見える。
 ピエール・シャローのキャリアが第一次世界大戦から大恐慌までとすると、第二次大戦後、ハーマンミラー社のデザインディレクターに就任してニューヨークに事務所を構えた、ジョージ・ネルソンは、パリとニューヨークの都市としての意味を考えても、きっかりひとつ後の時代のデザイナーということになりそうだ。
 マシュマロ・ソファは、そのあとたまたま観た「ケープタウン」という映画にも出てきた。白いヤツ。

 ハワード・ミラー社と手掛けたクロックの数々も楽しかったけれど、この人の業績として最も興味深いのは、コーポレート・アイデンティティーという概念が、現実に企業の業績に大きく影響することを、ハーマンミラー社の成長によって実証したことだろう。佐藤可士和ユニクロの関係を、ちょっと思いださせるが、ジョージ・ネルソンの方がもっと深くコミットしている。何しろ、イームズ夫妻を招いたのも彼なのだ。
 なぜ私たちは、エクスペリアではなく、iPhoneをえらぶのか?、について、すでに、ジョージ・ネルソンが答えを出していたように見える。哲学のない企業は、社会に提供できる価値を持ちえない。カルロス・ゴーンには哲学があったが、ハワード・ストリンガーにはなかったとも言えるが、より正確には、カルロス・ゴーンと日産は、コーポレート・アイデンティティーを共有していたが、ハワード・ストリンガーは、ソニーと何物も共有しなかった。それは係長の朝礼のような話を得意げに語る、中谷巌についても言えることだろう。
 ワタリウム美術館磯崎新が、展覧会としては最も刺激的だ。というのも、展覧会のサブタイトルがすでに「建築外思考」。逆説的なようでいて、建築のことしか考えていないものに建築ができるはずもない。ピエール・シャローも、ジョージ・ネルソンも、それは同じだろう。
 私には、‘〈 間〉展 日本の時空間 1978’が興味深かった。
 日本の美意識を西洋の論理に翻訳し、そうして得られた仮説によって、日本の美を再生産する。マルチカルチャラルとは、本来そうあるべきだと思うが、こうした70年代が持っていたリベラルな空気を世界はいつの間に失ったのか?。痩せ細った純血主義に淀んでいるものたちの言論を聞いていると情けなくなる。
 その意味では確かに、第一次世界大戦後だとも言えるかもしれない。ピエール・シャローが始めた、古いアパルトマンの改築作業を、建築外思考として、私たちは引き継いでいくしかないのかもしれない。