『無意味の祝祭』

knockeye2015-12-25

 なるべく毎日書こうと思ってるけど、なかなか。
 「リア充」なん人たちは、クリスマス的な事どもで忙殺されている頃だろうけれど、わたしといえば前の記事を書いてから、怒涛の長時間残業ラッシュで、佐川急便に連日の無駄足を踏ませている。ヤマトはコンビニで受け取れる。郵便局は、本局が職場と寓居の間にある。佐川で送られるとご足労願うしかない。明日も仕事だけど、さすがに残業はしないつもりなので、明日は受け取れるであろう。

無意味の祝祭

無意味の祝祭

 ミラン・クンデラの『無意味の祝祭』を読んだ。
 ナレーターの視点が、登場人物が出会うたびに乗り移っていく、場面転換の巧みなストーリーテリング
 でも、最後のリュクサンブール公園の出来事は、パリのテロの後だと、予言めいた不気味さを漂わせないではない。
 そろそろ一年をふりかえる季節だが、わたしにとって今年は、コンセプチュアル・アートが遠のいた年だった。敢えて、センセーショナルな言い方をすれば、コンセプチュアル・アートは死んだと思った年。世間的にはとっくに死んでるのかも知れなかったが、世間と波長も歩調も合ってない私なので、コンセプチュアル・アートも何かしらでありうるのかなと思っていたが、ワタリウム美術館で「DON'T FOLLOW THE WIND」てふ展覧会を観て、それ自体は良かったのだけれど、コンセプチュアル・アートには、この先、何もなさそうだなと思ってしまった。
 アートに限らず、何にでもコンセプトを求めることは可能だが、何であっても、そこからコンセプトだけを抽象するのは、つまるところ、文化のコンテキストが貧弱であるにすぎない。コンテキストが豊かであれば、そこからコンセプトだけを抽象できないと思う。
 絵を観たり、映画を観たり、本を読んだりしたとき、「で、意味は?」っていうの初心者でしょ?。意味しかないアートはアートではない。
 それと反比例して、明治以降の日本の絵を再評価した年だった。洋画も日本画も。
 印象的だったのは、中澤弘光が、カフェの女給かなんかの顔を描いた絵。何の意味もないただの顔。私やあなたの顔と同じように何の意味もない。しかし、結局、絵描きはそれを描く。そして、その絵を誰かが観る。それを遮って「で、意味は?」とか言う奴は、バカというより貧しいのだ。
 来年、2016年、「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」がある。楽しみにしている。