ヘイトスピーチ解消法成立について

ヘイトデモ阻止

 ヘイトスピーチ解消法の成立を受けて、さっそく、川崎のヘイトデモを中止に追い込むなど、罰則規定のない法律ながら、ザル法になることなく、機能し始めているようでひとまずホッとしているが、この成立については、ちょっと気にかかっていることがあるので書いてみたい。
 ヘイトスピーチが、差別意識を持った集団による示威行為であることは、そもそもの最初から明白だった(それとも違うとでも?)。なので、まず、これに対して、何らかのアクションを起こすべきだったのは、地方行政であるはずだと思っていた。なぜなら、ヘイトスピーチによって、地域住民の安寧な生活が脅かされているのは間違いなかったからである。
 ヘイトスピーチ解消法を受けて、今回、川崎市は、ヘイトデモを主催する団体に、公園の使用を許可しなかったわけだが、しかし、ヘイトスピーチ解消法の成立まで、ヘイトスピーチを阻止できなかった地方行政に、わたしは危うさを感じている。
 ヘイトスピーチは、「巧妙に隠された」わけでもなんでもない、「ムキ出し」の差別表現なのである。そういうものに、今回の場合と同様に、公園の使用を不許可にしたとして、ヘイトスピーチ解消法がなくとも、それが何か問題だったろうか?。
 「ヘイトスピーチ解消法ができたから、やっと、ヘイトスピーチが阻止できる」と考えるのは間違っている。なぜなら、地方行政は中央に隷属するべきではないからである。
 今、沖縄が中央の決定に徹底抗戦しているが、この態度は正しい。地方行政が、地域住民の安全を守ろうとするのは当然で、中央の政策が、地域住民の安全を蔑ろにしている限り、これにやすやすと従うべきではない。解決の糸口は見えないが、住民の安全を無視して、強引に工事を推し進めた中央のやり方に非がある。地方行政がこれに従わないのは、当然ではないだろうか。
 沖縄の事態と、ヘイトスピーチをめぐる本州の地方行政のありかたを比べてみると、相も変わらぬこの国の民主主義の危うさがよくわかるのではないか。ヘイトスピーチ解消法などなくとも、地方行政はヘイトスピーチを阻止すべきだった。デモそのものを不許可にすべきだった。
 それが、憲法の「表現の自由」に抵触するかは、 行政の問題ではなく、司法の判断である。行政が、司法に遠慮することはない。正しいと判断すれば執行すべきなのだ。ヘイトスピーチが正しいか正しくないかの判断すら、日本の数多ある地方行政府のどれひとつできなかったのだとすれば、やはり、危機的な状況だと思うのだ。
 主権者である国民の意思を、政治に反映するために、三権の独立は欠かせない。三権に限らず、権力を行使できる立場にある機関はすべて、他の機関からなんらかのブレーキをかけられるべきなのだ。権力同士が牽制し合うからこそ、そのジャッジとして、国民が主権を行使できる。行政、司法、立法が、お互いに結託していては、民主主義の成立する余地はない。
 その意味で、ヘイトスピーチ解消法が成立するまで、なすすべなく手をこまねいて、レイシストを図に乗らせた行政のあり方には疑問を感じる。
 ヘイトデモを護衛して、ヘイトデモに抗議する市民を逮捕し、ヘイトデモに抗議する市民に暴力を振るいさえした警察の姿は、動画に捉えられて世界中に拡散している。ヘイトデモの参加者が目の前で暴力を振るっても、暴行の現行犯で逮捕しなかった警察官は、誰かの指示を受けてそうしたのだろうか。多分、そうじゃないだろうと推測する。思考停止しているのだ。
 警官がヘイトデモを先導するグロテスクな光景は、日本の民主主義の脆弱さを正確に映している。ヘイトスピーチ解消法は、今はまだ、ザル法になっていないが、ヘイトスピーチ解消法がなければ、明々白々の差別にも、何もできない行政が、ヘイトスピーチ解消法があっても何もできない行政に、すぐにでも後退することは、目に見えているように思う。