『おかしな男 渥美清』

knockeye2016-08-23

 横浜そごう美術館でレンブラントのコピーを観たあと、ミュージアムショップで『カラヴァッジョ伝記集』を買ったつう話をしたが、そこになぜか小林信彦の『おかしな男 渥美清』のちくま文庫版が並んでおいてあり、つい買ってしまった。
 それで思ったんだけど、本屋じゃない場所で本を買うのは、ちょっと運命的な出会いに似ていて、思い返してみると、美術館で買った本は完読率が高い気がする。それにしても、なんでレンブラント展で渥美清だったんだろう?。
 この本が最初に出たのは前世紀の最終年だったらしい。ついこないだのような気がしていたが、もうそんなに経っていたらしい。『天才伝説 横山やすし』がすばらしかったから、これが良いであろうことは推測できたのだけれど、小林信彦渥美清という場合、その距離感がどうなのかなぁという迷いがあって、ためらううちにそんなに時が過ぎてしまっていたらしい。
 でも、ほんとのところは、どちらかといえば、読むこちら側が「渥美清=寅さん」という先入観を逃れられなかっただけかもしれない。
 小林信彦は、この本を「ポルトレ」だといっている、評伝ではなく。読んでみるとその意味はすごくよくわかる。これは、「寅さん前夜」の渥美清と交友のあった小林信彦でなければ書けない。ときには渥美清の肖像だが、ときには渥美清のいる風景であり、その風景の中で渥美清は点景にすぎなかったり、通りすがりだったり、記事の切り抜きだったりする。
 『天才伝説 横山やすし』は、たぶん小説だったと思う。実在の人物が主人公の小説。すごくよかったけれど、あれと同じ事を今度は渥美清でやるてなことを小林信彦はしない。
 だからと言って、「フーテンの寅をめぐる文化論」のようなものでもない。そうなるには、小林信彦渥美清の距離は近すぎる。だから、ポルトレなのであり、そうしたポルトレをこれ以上ない鮮やかさでものにしている。それは、やはり、小林信彦の中に降り積っている無数の映画や本の教養があればこそなせるワザなのである。絶対にそうなのだ。
 松本人志は、「寅さんを面白いと思った事がない」と発言しているが、それは半分は正しいとしても、それでは映画は作れないだろう。映画を作るには、欠落しているもう半分がどうしても必要になるはずだと思う。松本人志は、彼の笑いを形作っているのが、自身が身につけている膨大な上方芸能のアーカイブであることに自覚的でないのではないか。
 小沢昭一は、「寅さんは渥美清の半分でしかない」といった意味のことを語っていたそうだ。しかし、その半分を削り落とす決断に、ある時代を代表するコメディアンが、国民的な映画俳優に変身する宿命があったのだろう。
 「幕末太陽傳」のフランキー堺が、川島雄三の急死以後、写楽の映画化に取り憑かれたように、奇跡的な出会いは、誰の生涯にもそう何度もあるものではなかった。
 今後、渥美清の人物論や評伝がいくつも書かれるだろうけれど、この本の渥美清が姿をあらわすことは二度とないだろう。