河鍋暁斎

knockeye2017-03-17

 ヨーヨー・マの映画をル・シネマで観たついでなので、地下のザ・ミュージアムで開催されている河鍋暁斎の展覧会ものぞいてみた。
 河鍋暁斎については、おととし三菱一号館であった大きな回顧展を観て失望した。
 河鍋暁斎歌川国芳の弟子だが、同じく弟子の月岡芳年とちがって「芳」の字を継いでいない。狩野派にも学んだというから、最後の浮世絵師と呼ばれる芳年と違って、国芳に強い思い入れはないのだろう。
 しかし、今回の展示にあった河鍋暁斎

この猫と、師匠の歌川国芳

この猫を比べてどう思うか。
 あるいは、河鍋暁斎のこの幽霊

に対して、月岡芳年

≪うぶめ≫をくらべたらどうか。
 月岡芳年が水野年方、鏑木清方伊東深水と現代に系譜をつないだのに対して、河鍋暁斎はどうだったか。
 河鍋暁斎はカラスの絵が有名で、毎日、カラスを描くことを日課としていたようだが、いま、出光美術館でやっている古唐津の展覧会に参考展示されている狩野探幽の叭叭鳥の屏風を観てみるとよい。画面の構成力にしても、墨の濃淡にしても、筆の使い方にしても、違いが歴然としていると思う。
 これは河鍋暁斎の問題であるよりも、明治という時代の宿命だったろうと思う。出光美術館で以前あった富岡鉄斎にも失望したし、たぶん、明治という時代に、いったん、日本の文化的なバックボーンというか、コンテキストというか、そういうものが滅んだのだろうと思う。今でこそ私たちは、美術館で狩野派の絵画を観たり、長谷川等伯を観たり、円山応挙、曽我蕭白長澤芦雪尾形光琳酒井抱一と、比較的簡単に目にすることができるのだが、急激な西欧化の時代に、時代の空気として、それらの名画が顧みられなくなったことは確かだろうと思う。歌川国芳にしても、再評価されたのは今世紀に入ってからなのだから。
 幕末のほんの少し前まで、浦上玉堂や田能村竹田のような本物の「文人」が築いていた社会が、明治維新で崩壊してしまった。というより、今の私たちは、浦上玉堂の存在を通して、あるいは、木村蒹葭堂の存在を通して、当時、そういう文人の生息する社会が存在したと、うかがい知るばかり。その社会の在り方を実感できる人が今どれくらいいるだろうか。
 月岡芳年が神経を病んだのは、その違和感だったろうと思う。月岡芳年は上野の山に彰義隊の死体を取材している。
 ひどい言い方かもしれないが、時代に苦悩した月岡芳年の絵が、今見ると面白く、時代の流れに乗った河鍋暁斎の絵は、当時、騒がれたほどのことはない。と、思う人が多いのではないか。
 しかし、明治という時代は明るい時代だったろうと思う。河鍋暁斎の絵がつまらないというと言い過ぎなのだ。ただ、今の私たちは、過去の大家たちのマスターピースを目にすることができる。そうしたマスターピース河鍋暁斎にあるかというとどうだろうか。おそらく、マスターピースを描く意識そのものが彼になかったと思う。美術史意識がなく、オリジナリティーに関して危機感がなかった。と、今見るとそう見える。