アルベルト・ジャコメッティ

knockeye2017-06-20

 国立新美術館で開催されているジャコメッティの展覧会を観に行った。ジャコメッティの三大コレクションのひとつ、マーグ・コレクションを中心に展示しているようだ。
 ジャコメッティの名前を聞くと、わたしにはほぼ条件反射のように思い出すイメージがある。2011年、白洲正子の展覧会に出展されていた、奈良大和郡山の松尾寺にある「焼損仏残闕」である。高さ188cm、火事で焼けた黒焦げの仏像の残骸だが、これを展示室で観た時の衝撃は忘れがたい。
 観た瞬間、「ジャコメッティだ」と思ったが、彼の作品のどれかに似てるのかと思い返すと似てるものはないようだ。
 奈良時代に造られたもともとの姿は、おそらくたおやかな観音像であったのだろう、その表面を、いつの時代かの炎が焼き尽くして残ったフォルムの美しさに、ジャコメッティ存在論を観てしまったのだと思う。

 ジャコメッティは、なぜ削ぎ落とすのか、という問いに対する答えは簡単ではないと思うが、よく知られているスタイルにたどり着く前段階として、極小の人物像を造っていた時期があった。造るたびにどんどん小さくなり、しまいにはマッチ箱に入れて持ち運んでいたそうだ。
 小ささは、絵画表現においては遠さだろう。絵画にあっては、遠近法の文脈で遠いものが小さく描かれるが、遠近法と無関係の彫刻にあっても、小ささが遠さでありうるだろうか、といえば、巨大なものに圧迫感を感じるとすれば、その逆の小ささは、遠さとつながっている可能性はある。
 ジャコメッティの彫刻には、距離感がつねに意識されていると推測できるかもしれない。
 いったん辿り着いた小ささという表現を脱して、向かったあの削ぎ落とされたスタイルは、等身大、言い換えれば、大きくも小さくもない人物像に、どうやって距離感を持たせるかの試みであったかもしれない。この想像は、後の《3人の歩く男たち》などの「広場」のシリーズが裏付けとなってくれるかもしれない。この彫刻では、3体の人物像の距離感が表現のキモであることに異論はないはずである。
 たとえば、古典的で写実的な彫刻を観る場合、

私たちは距離感を失う。半裸の女性のむき出しの乳房をしげしげ眺めて平気でいる。これを観ながら、顔を赤らめたり、胸がドキドキしたりする方がたぶん「アブナイ」人だろう。私たちは、これが人を「かたどった」ブロンズのかたまりにすぎないことを前提として、彫刻に向かっている。
 フィオナ・タンが、かつての彫刻作品は現代における映像作品と同じだった、という意味の発言をしていた。フィオナ・タンのその発言の、彼女自身にとっての意味は、わたしが今ここで言おうとしていることとは違うかもしれないが、確かに、私たちは映像を見るように、彫刻を見ている。女の映像を見ることと、女のフィギュアを見ることの違いは、2D、3Dの違いと、写し取られた時間の差だけだろう。
 そう考えると、さっきの「距離感」という言葉は、「関係性」に置き換えるべきかもしれない。西欧の人たちは、人の姿を神の似姿と考えてきた。その意味では、彫刻は神の業を真似る行為でもあった。創造主という意識は常にあっただろうと思う。
 おそらくジャコメッティには、そうした絶対者の意識がない。他者と他者として、人に対する時、「似ている」ことにさしたる意味はなく、むしろ、相対的な「間合い」、「距離感」、「関係性」にこそ存在の実感がある。
 ジャコメッティのスケッチも多く展示されていた。特徴的なのは、目の強さ。眼差しを捉えようとしていたという。画家がモデルを観るのと同じくらいの強さで、モデルも画家を見返している。対象を見たままに捉えようとした時、ジャコメッティには、他者としての「位置」が、いつも意識されていただろう。架空の神の位置に立つウソには、たぶん耐えられなかったのだろうと思う。退屈すぎて。