充実した沈黙

 おぎやはぎがふたりともラジオを休んだ回があった。小木さんがガンの手術で休んでいるところに、矢作さんがコロナの検査で陽性っていう、あの日はたまたま仕事中にradikoを聴ける日だったのに、ふたりともいないならさすがに聴かないです。
 それで仕方がないので放送大学の「思春期・青年期の心理臨床」を聴いていた。案外おもしろくて、スマホネイティブと言われる世代のSNS疲れとはどういうものかがよくわかった。
 私は、このブログは書いているけれども、いわゆるSNSと言われるものは、Twitterしかしていない。匿名性を確保したい、と言う思いもあるけれども、もっと自分の気持ちに近い表現をすると、弱いつながり、というか、適度な距離を、たとえインターネットの上といえども、保っておきたいわけ。言い換えれば、私は電脳化を拒否している。
 しかし、スマホネイティブ世代にとっては、グループLINEなんて、1人で20とか、そんな数に入っているのはあたりまえだそうだ。そして、その仮想空間で、常に的確なやりとりを求められていて、その入り口であるスマートフォンは、彼らの眠りについている間も、枕元で待機し続けている。彼らは、事実上もう仮想空間にすんでいる。
 指摘されていた問題点の1つは、コミニケーションが常に切れない事の不健全さ。もう一つは、言葉によらないコミニケーションが、極端に貧しいと言うことである。
 オールナイトニッポン木曜日の岡村隆史の舌禍事件の時に、しつこく書いたけれども、あの程度のことを、タレント生命を断ちかねないまで批判することを、正義だと信じて疑わない感受性の貧弱さは、こういうことかと思い至った。
 あの時も、岡村隆史のラジオが批判されたと言うよりも、それを文字起こししたネットニュースの内容に、のちには「自粛警察」と揶揄されることになる連中が、ヒステリックに反応したというのが実態だった。
 あの時も書いたけれど、そもそも「ジョーク」を「発言」というか?。しかし、たしかに、すべての言葉を、プレーンな文字情報としてしかとらえないなら、「ジョーク」も「発言」になってしまう。
 ジョークが通じない人間を言い換えれば、言葉を字義でしか捉えられない人間だということになるだろう。それはまた、字義以外のコミュニケーション能力が著しく未発達な、ある種のコミュニケーション障害だと言えるだろう。
 人は言葉だけでコミュニケーションをとっているわけではない。禅宗では「拈華微笑」というのだけれど、何もそこまで大袈裟に言わなくても、言葉のないコミュニケーション、沈黙のコミュニケーションを経験したことのない人間なんて、想像するだにおぞましい。放送大学の講師は「充実した沈黙がない」と表現していた。
 
 かまいたちが、ゴッドタンでYouTubeの話をしていた。あの2人はキングオブコントで優勝しているし、M-1でも、3年連続決勝に進んでいるので、今ちょっとステージを変えて、YouTubeでどこまでできるかトライしているみたい。
 で、YouTubeの再生回数を上げるために、彼らが何をしているかと言うと、かまいたちの漫才を知っている観客にはちょっと意外だと思うのだけれど、全然尖ったことはやらない。その方がむしろYouTubeでは好まれるそうなのだ。
 テレビでの人気者がYouTubeてもウケるとはかぎらない。笑芸に限らず、すべての芸術がコミュニケーションなのだから、客が変わればウケは変わる。
 YouTubeでの正客がSNSにうんざりしているスマホネイティブだとしたら、彼らはYouTubeに「言葉のないコミュニケーション」を求めているのではないかと、想像してみた。
 石川美子ロラン・バルトとについて書いた本の中に、彼は日本の俳句を「意味の中断」だと捉えていたと書いてあった。ナンセンスではない。ナンセンスはまた別の意味だから、意味の中断にはならない。俳句は意味を中断した状態で相手に渡すコミュニケーションなのである。
 和歌となると、平安時代の貴族は、和歌のやりとりに縛られていた。細かな規則があり、優劣で評価された。俳句は、たしかに和歌にルーツを持っているけれども、いつしか和歌の上の句だけになり、意味は完結しない。そういうことが好まれた時代もあった。
 YouTubeで好まれているのはそういうことかもしれないなと思った。ちなみに、ブログはナラティブなメディアだと言われていた。