「追憶と、踊りながら」

knockeye2015-06-06

 「追憶と、踊りながら」を新宿武蔵野館で。
 新宿武蔵野館新宿駅東口の目の前なので、小田急沿線に住む者としては、神奈川県下の映画館より感覚的に行きやすくもあるのだけど、今回の場合は、ジャック&ベティでも上映があるものの、夕方の一回のみだったので、「おみおくりの作法」のときみたいなことになっちゃたまんないし、つうこと。
 ところが、また満席ですわ。今回は辛うじて潜り込めましたけどね。「レッドファミリー」のときは映画の日だったから諦めもついたけれど、今回は何の変哲もない週末なのに。
 わたくし、ベネディクト・カンバーバッチの「イミテーション・ゲーム」を観た時、自分で反省したのは、ベネディクト・カンバーバッチの演じるアラン・チューリングが、逮捕される警察署の署長のセリフで「男同士で気色の悪い」ていうのに無意識に深くうなづいてた。
 くどいようだけど、私の場合、子供の頃に、「男性」に性的な悪戯をされた経験があるので、今はまだマシになったけど、若かった頃は特に、ホモセクシャルだけでなく、そういうジョークとかにさえ、今にして思えば、怯えていた。身の毛がよだつっていうやつ。
 そういうわけで、今でも、ホモセクシャルは、ほぼ本能的に、気色悪いと感じてしまうわけだけれど、そういう個人的な経験を、一般論化してしまうほどアホでなかったことは、自分のために幸いだった。
 この映画の監督、ホン・カウも主役のベン・ウィショーもすでに同性愛者であることをカミングアウトしているが、本編でベン・ウィショーが演じている‘リチャード’のパートナー‘カイ’は自分の年老いた母親‘ジュン’にカミングアウトできないまま不慮の事故で死んでしまう。しかもジュンは中国系カンボジア人の移民で英語も話せない。
 リチャードもジュンも、パートナーとして、母親として、カイの不在を埋め、喪失感を癒したいと願っているが、カイがカミングアウトしなかったために、コミュニケーションに決定的な齟齬が生じる。しかもそのコミュニケーションも通訳を通してしかとれない。
 リチャードが通訳に頼んだ‘ヴァン’が、プロの通訳じゃなく、カイと同じように移民の子であったことはけっこうポイントかもしれない。ヴァンを演じているナオミ・クリスティが、この映画では残念ながら、無駄にチャーミングなのは無駄じゃない。というのも、リチャードが、実際に、言葉でコミュニケーションをとれるのは彼女だけだから。
 通訳という第三者を介して、展開していくダイアログつていうのが、けっこう面白かった。言葉が通じる者同士の対話なら分離していないはずの意味と感情に時間差がある。感情の主旋律に、意味の伴奏が、少し遅れてついてくる。と、不思議なことに意味がわからなくても、というか、その方がむしろ、感情がダイレクトに伝わる。これは面白い体験だった。
 こうした異文化コミュニケーションの映画だと、たいがい、英語がペラペラの日本兵とか、日本語が達者な架空の人物とか、取って付けたような役が必要にされてきたけれど、むしろ、不自由なたどたどしいコミュニケーションこそ、マルチカルチャリズムの本質だと、ホン・カウ監督は実体験から知っていたのだろうと思う。
 さきほど、リチャードもジュンも、喪失感を癒したいと願っていると書いたが、この映画が感動的なのは、そうした癒しではなく、ふたりが結局これから何に対峙して、どこへむかっていかなければならないかを自覚する切なさだと思う。
 ジュンは本当はわが子の告白に身構えていた。服を整え窓の外を見ていた。でも、カイは訪れず、その機会は永遠に失われた。年老いたジュンにとってのカイの死は、リチャードにとってのそれとは意味が違う。結局、この追憶は、この先、とめどなく繰り返される、その追憶なのだろう。
 それから、もうひとつ、付け加えておかなければならないのは、ベン・ウィショーのベッドシーンは、自然で美しい。ホンモノだからといって、こんな風に演じられるとは限らないだろう。私みたいにホモセクシャルに抵抗がある人もそこは大丈夫です。