着想のマエストロ 尾形乾山

knockeye2015-06-01

 サントリー美術館で、「着想のマエストロ 乾山見参!」てふ、駄洒落まじりの展覧会が、これはまだ始まったばかり。7月20日までやってるけど、途中で展示替えがある。詳細はサイトの出品リストで。

 先週、ルーシー・リーを観たことはすでに書いたが、展覧会場に掲示されている乾山の系図の最後にはバーナード・リーチの名前があり、富本憲吉の皿も展示されていた。
 リーチは何代目かの尾形乾山に陶芸を学んだはずだが、江戸に移り住んだ乾山の没後、その流派がまだ引き継がれているのを発見したのは、江戸琳派創始者酒井抱一だったそうだ。それ以降、尾形乾山の器は「琳派」という照明を浴び続けることになるし、その後のわたしたちが乾山を見るときも「琳派」は同じ視野の中に入ってくる。
 乾山の本質がその着想と意匠にあるとすれば、たとえば、仁阿弥道八が写した銹絵雪竹文手鉢と、滴翠美術館所蔵の乾山のオリジナルとは、どう区別すべきなのだろう。

 乾山自身は、野々村仁清の御室窯で作陶を学んだそうだ。おそらく、ロクロの技では、乾山は野々村仁清に及ばないのだと思う。野々村仁清の手の技は、たしかにオリジナルと写しとを分けるだろう。
 話はそれるが、北陸新幹線が開業したことでもあるし、ちょっと富山の耳寄り情報を書き添えておくと、富山の朝日町というもうほとんど新潟というあたりに百河豚美術館と書いて「いっぷくびじゅつかん」と読ませる、そういうところがあるのだけれど、ここに「どうしてこんなとこに?」と思わせるほどの野々村仁清のコレクションがある。
 野々村仁清は、京焼の完成者と呼ばれているが、しかし、それ以前の京都は、文化の発信地であると同時に巨大な市場だった。全国の産物が京都へと運ばれていた頃は、「京都」というブランドイメージは戦略としては不要だったはずだが、政治の中心が江戸に移るようになってはじめて、「京都」のブランド価値が意識された。
 野々村仁清の作風にそうした「京都」の意識が鋭いのに対して、尾形乾山は、なんといっても出自が京の町衆も大店雁金屋の三男坊なわけだから、そうした「京都」の作り手であるよりは、むしろ、受け手であったと思わせたのは、2008年のグルマン世界料理本大賞で、料理本写真部門で最優秀賞を受賞した『美し 乾山 四季彩菜』の写真の数々。

なぜかAmazonでは扱っていないみたい。この表紙に使われている「色絵竜田川図向付」はこの展覧会にも展示されている。外縁は同じかたちだが、内側の紅葉と波のデザインが異なる、揃いの器で、こういうところに乾山の真骨頂があったと見える。


こうして料理を載せたとき、銹絵や色絵が映える。
 今回の展覧会のポスターに使われている盃台

も、こんな風に

杯を重ねた方が表情が華やぐ。紅葉が吹き寄せた酒の池から酒を酌むかの意匠だろうか。吉田健一なら、こういう器で酒を飲みたいと思うだろう。
 北大路魯山人の器は美食倶楽部で実際に使われるために焼かれていた。視覚に訴えるだけでなく、触る、食べる、というところまで含めてこそ器なのだろう。乾山の器は、そういう総合性を保っているという意味で、アートよりははるかにクラフトであり、その意味で、乾山個人のイメージがどこか曖昧に感じられるのも当然なのかもしれない。
 ぐっと時代が下って、幕末から明治に乾山の流れを継いだ、三浦乾也の色絵菊文簪や、色絵雪松文印籠などは、江戸という太平の時代が、いかに洗練を究めたかを教えてくれる。特に、茶碗象嵌煙管入など乾山の感想を聞いてみたい。
 また、三浦乾也と柴田是真が合作した桐松象嵌蒔絵盆などは、明治の超絶技巧という展覧会があったが、あれに出されるべき類だろう。
 こうして、江戸初期から明治初期まで貫かれているデザインの伝統を見ていると、現代の東京にはどれほどデザイン意識があるだろうかと疑問に思えてくる。
 東京オリンピックの新国立競技場をめぐるいざこざを見ていると情けなくなってくる。以前にも書いたかしれないが、ザハ・ハディドの建築は、イギリスでもフランスでもドイツでも中国でも台湾でも韓国でもアゼルバイジャンでも、現に建築されてその美しい姿を見せている。「できましぇーん」と泣き言を言っているのは、日本の土建屋どもだけなのだ。いろいろご託を並べているようだが、つまりは、「うまみがない」というだけのことは明らかだ。日本の建築業界がいかに低劣で下卑ているか、今さらながら、世界にさらしているだけのことだろう。