『ボストン市庁舎』

 フレデリック・ワイズマン監督の『ボストン市庁舎』を観た。
 上映時間4時間ごえという、この長尺の持つ意味は、今回の場合、今までの作品と違って、主人公がマーティン・ウォルシュ市長ひとりにしぼられてしまうおそれがあったからだとおもう。プロパガンダみたいになってしまうことは、フレデリック・ワイズマン監督の方向とは真逆だと思うし。
 2015年の『ニューヨーク、ジャクソン・ハイツへようこそ』で示されていた危機に対するひとつの答えがここにあると見ることもできる。『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』もそういう面があったけれども、図書館はどこまでも行政の一部。それに対して市庁舎は、国政全体からすると確かに小さいとは言え、はっきりとした政治的な意思を持った行政体なので、だからこそ、映画にするのは難しかったかもしれない。
 そういう文脈で見ていると、意外なのは、お気づきの通り前2作がニューヨークなのに、今回がボストンであることだ。実のところ、フレデリック・ワイズマン自身にとってさえ意外なのではないか?。
 ボストンは良くも悪くも、独特の陰影を持った街じゃないだろうか。映画で振り返ってみれば、例えば『ブラック・スキャンダル』は、あの時のジョニー・デップベネディクト・カンバーバッチが演じたバルジャー兄弟は実在の兄弟だった。ボストンの特にサウシーと言われるボストンの南部は、FBIと政治家とアイリッシュ・マフィアが、外部からは窺い知れないのがれがたい絆で結ばれている、良くも悪くも、ディープで変化しにくい街のイメージがある。
 それに近年では、「茶会派」とサラ・ペイリンの記憶は、トランプの出現で薄れたとはいうものの、まだまだ折にふれて思い出される。
 なので、そういう街で、マーティン・ウォルシュのような市長が誕生するっていうことが意外だし、アメリカという国の根底にある健全さを認めざるえない。振り返って、日本という国の変われなさについて、言い換えれば、政治的な幼稚さについて思い巡らさざるえなかった。
 この映画のわかりやすさとわかりにくさは、フレデリック・ワイズマン監督の前2作とこれを合わせて、フレデリック・ワイズマンの民主主義三部作とするには、ニューヨーク〜ニューヨーク〜ボストンという背景の変化が、内角高めに速球を2つ投げられた後、外角低めにナックルボールが来たみたいな。討ち取られはしたけど腑に落ちないみたいな。
 譬えとして逆かもしれないけど、ここでボストン市庁舎を取り上げるなら、前フリが足りない気がしてしまう。ヤンキース嫌いの熱狂的なレッドソックスのファン達やサウスボストンの人たちはどこへ行ってしまったんだろうという気分になる。
 それはしかしたぶんアメリカ人にとってはベタすぎる話題なんだろう。日本人には足りないと思えるフリは、アメリカ人にとっては「ボストン」というだけで充分なフリになっているのだろう。
 ブラック・ライブズ・マターの時の騒動や、Q-anonの米国議会襲撃の映像を記憶にとどめつつこの映画を観ることが大事だろうと思う。それは歴史的的な理解のためにとかではなく、単に忘れないために、何なら、香港の雨傘運動の映像も思い出しておくべきだろう。香港では、デニス・ホーが逮捕されてしまった。
 フレデリック・ワイズマン監督のがそれでもなお、ナレーションとBGMを一切排したスタイルを貫き通す、その覚悟に驚嘆させられる。それでもなお、安直に語らない映像だけが力を持つという揺るぎない信念があるのだろう。そしてその通りだと思う。

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映画『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』。ここまで影響力のあるトップスターに手を出すようだと中国は本格的にもうダメみたい。

2022/01/01 06:50

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