『ブラック・スワン』、『たかが世界の終わり』、『マンク 〜破戒僧〜』なんかに出てた、ヴァンサン・カッセルが主演。だが、映画の最後にモデルになったご本人たちが登場する、全くの実話。内容は、長い副題が言い尽くしている。
だから、つまんないか、Eテレっぽいかっていうと、そういうことにはならなくて、はらはらどきどきの息をもつかせぬ展開は、ありきたりなエンタメよりずっと面白い。おもしろく味づけしましたってんじゃなくて、この施設そのものが面白い。
最近で言うと、『MIU404』みたいな、軽快なバディー・ムーヴィーみたいなあじわい。ヴァンサン・カッセルが副題にある「自閉症ケア施設」を運営しているブリュノなんだが、そのバディーに当たるのが、レダ・カテブの演じるマリクで、この人は若者の更生施設を運営していて、そこの若者たちがブリュノの施設で働いている。そのサークル感がなんか良い。
副題にある「政府が潰そうとした」というのも、もし日本で政府が潰そうとしたら、つぶす結論ありきで、あの手この手で潰しにかかるのが役人だけれども、フランスの場合「公共の福祉に資する」意識がしっかりしていて、「政府が潰そうとした」というよりただ「監査が入っただけ」のように、日本人の目にはそう映る。それもあれこれと起こるトラブルのひとつって感じ。
あと、ブリュノがなぜニューヨーク・ヤンキースの帽子を被ってるのか、不思議だったんだけど、キッパーというユダヤ人の被る小さな帽子を隠してる感じなのかな。その辺、日本人にはよくわからない。とにかく、キッパーの上にヤンキースのキャップを被っていた。
「シドゥク」というユダヤ式のお見合いも面白かった。エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカシュ(『最強のふたり』の監督)が主役2人に出演をオファーした時は、まだ脚本に取りかかってすらいなかったというからすごい。まず、舞台となるふたつの団体を彼らに実際に見てもらい、その上で出演するかどうか決めてもらったそうだ。
そんな状態から始めて、あの「シドゥク」の場面がシナリオに入るのが面白い。そういうところにこの監督・脚本コンビの人間性を感じる。
この前話した「曲先」「詩先」ではないけれど、映画は総合芸術だから、それこそ作り方は、監督によって千差万別の違いがあって当然だけれども、それにしても、まず、描くモチーフを決めて、それを演じる役者にオファーして、それから脚本を書き始めるって、どうやって作っていったんでしょう?。ほんとにあの主役ふたりが運営しているみたいだった。
キーパーソンになる自閉症の男性ジョゼフを演じたベンジャミン・ルシューは、まるでほんとの自閉症の人みたいに見えるけど、とは思っていたけれど、ほんとにそうなのだそうで、映画の準備期間に2年かかったのだそうだけれども、その間に、「自閉症など他人とのコミュニケーションに問題を抱える人々を雇っているアートグループ」を見つけて、彼らと映画のワークショップをするうちに見つけた人なのだそうだ。
そして、もうひとりの重要な自閉症患者ヴァランタンを演じたマルコ・ロカテッリは、彼の弟さんが自閉症患者なのだそうだ。それは、本人が自閉症であることとはまた別の意味で特別な重みがあったと思う。
邦題につけられている「政府がつぶそうとした」云々は、日本人受けを狙った結果だと思うけれど、映画の中身とは違うな。当然の査察が入っただけで、結局は認可される。
フランスでもそうだが、フレデリック・ワイズマンの『ニューヨーク公立図書館 エクス・リブリス Ex Libris: The New York Public Library』や『ジャクソンハイツへようこそ in Jackson Heights』を観れば、トランプ時代のアメリカでも、末端では福祉が機能しているところがあるのが分かる。
日本では、警察のトップがレイプ犯をかくまってる。なんか情けない。