『ゲンロン戦記 - 知の観光客を作る』

 今年のお正月は外に出られないので本を読むのですが、この本は、東浩紀の「ゲンロン」をめぐる10年のもがき方が実に面白く、ポスト・コロナはこっちなのかなと思いました。
 東浩紀は、若くして論壇にデビューしつつも、こっちの理解力が追いつかないせいもあり、あちこちで顔を見かけるせいで何をやってる人なのかわからないせいもあり、あやふやな印象しか持っていなかった対象だったのです。
 確か、週刊SPA!にまだ福田和也坪内祐三の対談が載っていた頃に、福田和也浅田彰の対談が組まれたことがあって、その時、入院中だった浅田彰が、東浩紀がアカデミズムの現場から遠ざかっていくのを、口惜しく思っているらしいことを、ふと漏らしていたと記憶しています。
 しかし、それは、この本の中でも言及されている通り、東浩紀や、現在、ゲンロンの代表を務めている、上田洋子のような存在に、大学が居場所を提供しないとも言えるわけです。そして、その見方の方がしっくりくるように思います。
 ゲンロン創業当初、東浩紀は、メインストリームに取って代われるオルタナティブの場としてゲンロンを夢想していたそうです。その雛形としてはSF同人誌のコミュニティを、そのツールとしては、SNSを漠然と考えていたようです。
 東日本大震災の頃までは、たしかに、SNSは有用なツールと考えられていたと思います。しかし、10年を経た今、そのころ考えられていたSNSについての肯定的なイメージはすべて潰え去ったと言えるのではないでしょうか。少なくとも、東浩紀が夢想したような、オルタナティブな価値を実現する夢の道具とは、もう考えられないでしょう。
 ゲンロンの10年が、インターネットやSNSにどんどん裏切られていく10年であり、裏切られることで強くなっていく10年であるのを面白く思いました。
 吉本隆明が、糸井重里との対談で、10年毎日続ければ、何でもホンモノになると言っていたのを思い出しました。

ゲンロン創業のころは、また創業後もしばらくのあいだは、ゲンロンは「コンテンツをつくる人間だけが集まる組織であるべきだ、経理や総務のような面倒な部分はすべて外注で賄うべきだ」と思っていました。

でもいまは、当時の考えがまちがいだったとわかっています。これから順に語っていきますが、会社の本体はむしろ事務にあります。

10 年間、ぼくはさまざまなひとから、東浩紀はゲンロンの経営なんてやめるべきだ、本の執筆のよう な「本質的なこと」に時間を割くべきだと忠告されてきました。好意はありがたかったのですが、そ の忠告はまちがっていたと思います。

 と言った言葉の端々に、10年間のさまざまな経緯を経てきたリアルな重みがあります。この本は、ゲンロン創業の10年をその創設者が口述したものです。書いたものですらない。そのせいですごく読みやすい。読みやすく語れるほどに、東浩紀の中で咀嚼されたストーリーがあったということでもあると思います。
 当初、「コンテンツをつくる人間だけが集まる組織であるべきだ」と思い、SNSユートピアのように考えた夢想が、創業をピークにどんどん剥がれ落ちていくにもかかわらず、それと反比例するように、「オルタナティブ」な価値がどんどん達成されていくのがすごく面白いです。
 この本が、東浩紀の著作ですらないように、ゲンロンはもはや、オルタナティブな場として独立している。

ゲンロンは、ネットの力を信じることで始められたプロジェクトです。けれども、起業したあとは、 ネットの力はどんどん信じられなくなっていった。その狭間で苦闘してきた 10 年でした。

とりわけ問題なのは、SNSが普及するとともに、言論においても文化においてもまた政治において も、しっかりとした主張のうえで地道に読者や支持者を増やしていくよりも、いまこの瞬間に耳目を 集める話題を打ち出して、有名人やスポーツ選手を使って「炎上させる」ほうが賢く有効だという風 潮になっていったことです。

いま日本ではリベラル知識人と野党の影響力は地 に 堕ちていますが、その背景には、2010年代のあいだ、「その場かぎり」の政権批判を繰り返し てきたことがあると思います。

いまは、資本主義だけでなく、反資本主義や反体制もスケールを追い求めるようになっています。本書冒頭に記したように、2010年代はSNSとデモの時代でした。SNSはまさに反資本主義や反体制の声をスケールさせる装置として使われています。そのような運動はいっけん派手です。だからマスコミも熱心に報じます。けれども多くの場合、おそろしいぐらいになにも変えない。なぜならば、いまの時代、ほんとうに反資本主義的で反体制的であるためには、まずは「反スケール」でなければならないからです。

 これはまったくその通りだと、今振り返ればしみじみそう分かることではないでしょうか。
 具体的に言えば、リベラルの失敗は、小沢一郎と組んだことです。田原総一郎が「政策に興味がない」と評した小沢一郎は、まさに、スケールの権化でした。
 政権交代選挙でスケールを手にした後でさえ、政権内でスケールを手に入れようと画策する以外のことを、あの男はできなかった。
 ゲンロンの10年は、

同じ 10 年間、とりわけこの5年間ほど、日本のリベラル知識人が活動を大きくする=ス ケールすることばかり考え、足下の観客=支持者を失っていったことに対する、ぼくなりの返答でも ありました。

 たぶんこの方向で間違っていないんだと思います。その先に何があるかはまだわからないのですが、方向だけでもわかるのは良いことですし。