『NOPE』について、宇多丸さんと町山さんの批評が出そろったのでリンク。
私がこれについてあれこれ言うのは烏滸がましいが、これに関しての宇多丸さんの批評は牽強付会の匂いがする。宇多丸さん自身も「ハイブラウ」という言葉を連発しているのはその言い訳に聞こえる。
鑑賞の仕方は人それぞれでもちろんいいのだけれど、それを狭めてしまうような考察はあまりよくないだろう。もちろん、宇多丸さんにそういう意図はないに違いないが、町山さんの批評に比べてどちらが面白いか、映画を見たくなるかと言えば、あのシーンはAKIRAだ、あのシーンはエヴァンゲリオンだ、という町山さんのオタク批評の方が面白い。
もちろん、批評も芸だから、特に毎週やってる宇多丸さんの場合はすべる日もあるんだろう。それに、ジョーダン・ピール監督の前作、前々作のビターな風刺に引っ張られると、今作にもそんなスタンスで身構えてしまうのも仕方ないと思うし、それに、ジョーダン・ピール監督だから、絶対に深い風刺が含まれてるんだという鑑賞を違うと否定するつもりもない。ただ、そういう風に言葉で説明できる批判がしたいだけなら映画を作る必要はないので、映画という表現の根源的な衝動には言葉にできないものがあるのも間違いない。
だからこそ批評も芸にならざるをえないので、ここで私が書いているようなただの感想や連想とは、町山智浩やライムスター宇多丸の批評はものが違う。ただ、宇多丸さんのラジオには、宇多丸信者みたいなリスナーが集まりすぎてる気がしてちょっと気持ちが悪い。今回の放送で紹介されてるリスナーの「見る、見られる」の話は、『燃える女の肖像』のときに宇多丸さんが言っていたことそのままでもあるし、あの時は共感できたけど、今回もそれかと言われると、ちょっと保留したい気持ちになる。むしろ、宇多丸さんの話ではIMAX関連の話が参考になった。
町山さんの話では、今回の撮影監督がクリストファー・ノーランの『TENET』のと同じホイテ・ヴァン・ホイテマで、映画内映画の撮影監督のモデルも彼だろうという話が面白かった。
『TENET』も考察がかまびすしかった映画だったが、あれは物理学者が「私にもわからない」と太鼓判を押したので、少なくとも物理学的な考察は無意味だろうと思う。それよりも逆向きに進む時間と普通の時間を並行して描くというアイデアを楽しめばよかった気がする。
ただ、こんな具合に何でもアハアハ笑っていると、町山智浩の『フォレストガンプ』評を後で聞いて恥いるなんてことも起きるのは確かだ。
何にせよこの二人の映画評は傾聴に値する。ときどき身の程をわきまえずうーんとか思うのも楽しみのうち。