宮藤官九郎との対談で言ってたけど、みうらじゅんは今年還暦を迎えるにもかかわらず、オナニーしているところを事務所の女の子に見つかったそうだ。
還暦なのにオナニーするは、まあいいとして、それを事務所でしてたのは、もしかしたらすごいのかもしれない。しかも、例のエロスクラップを作ってるときにってことだから、あのエロスクラップは、いまだに現役バリバリってわけである。
コクヨのラ- 40のリリースと同時に始められたみうらじゅんのスクラップは、大竹伸朗のスクラップと並ぶ、日本二大スクラップと思っているが、それがこうして今も現役であること、始められたころと同じ情念で続けられていることには、心底感服する。
千年後くらいには、日本四大手鑑のような存在になっているかもしれない。
日本四大手鑑は、すべて国宝だが、みうらじゅんは彼のエロスクラップを「ボク宝」と称している。
ダジャレとしたらよくない方だけれど、行動が伴っていて、しかもその量が膨大なので、ダジャレのよしあしは問題じゃなくなる。
本人のモノローグが動画で流されていたが(ああ、言うの忘れてたけど、川崎市民ミュージアムでみうらじゅんフェスティバルが開催中)、「キープ・オン・ロッケンロール」っていうのがあるけど、それどころじゃなくてもはや「ループ・オン・ロッケンロール」だと言っていた。
小学生のころの怪獣スクラップから始まったものが、やがて、仏像スクラップとなり、それがエロスクラップにつながっていて、そして、還暦の今もそれを見ながらオナニーしているって、まさに「ループ・オン・ロッケンロール」なわけである。
盟友・山田五郎と展覧会を内覧している映像も観たけれど、山田五郎はしきりにこれはアートだとみうらじゅんに認めさせたがっていた。しかし、アートなんて言葉はとうのむかしに色あせているのではないだろうか?。
アートだから何だってのよ?。仮に、アートじゃなかったとして、それがどうなのよ?。
ボブ・ディランに会った時「定職はないのか?」と言われたそうなのだが、「いまだにデビューしていない」というみうらじゅんらしいエピソードである。「それがいいんじゃない?!」ということである。
みうらじゅんフェスティバルには、静嘉堂文庫美術館に歌川国貞を観にいった日に同時に訪ねたのだが、今日は、2016年に公開された映画、みうらじゅん原作、安齋肇初監督の「変態だ」が上映されるとあって観に行ったのである。
モノクロとカラーの切り替えが鮮やかで76分と短めの映画だったけど、なかなかよかった。
ロマンポルノへのオマージュってことだった気がするが、みうらじゅんは映画に関する教養もハンパじゃないので、そこにはうかつに触れないでおきたい。
劇中歌もみうらじゅんの作詞作曲。ボブ・ディランが「定職はないのか?」っていうわけなのである。
低予算でもセンスがあれば面白くなるって見本みたいな映画だった。
ただ、これが、みうらじゅん、安齋肇ってブランドなしで成立するのかは、考えてみてもしょうがない。現に、彼らがいて、そして、彼ら自身のブランドイメージを裏切らないレベルの作品をモノにするわけだから、褒むべきかな。大したものなのである。
「ループ・オン・ロッケンロール」とかいいながら、セルフコピーに陥ることなく、しかも、やっぱりみうらじゅんであるっていう、その個性の強さは、本質的にラディカルだからなんだろう。
「自分なくし」を標榜するみうらじゅんがセルフコピーに陥らないのは当然かもしれない。「自分探し」って言葉は、他者から学べない無能と、他者から学ばない怠惰の言い訳にすぎないだろう。誰も、最初から自分なんか探してたわけじゃないのに、途中で何を探してたかわからなくなって、めんどくさいから自分を探してることにするだけなのである。みうらじゅんは子供の頃から、ラ-40にスクラップしてたから、探してたものを見失わなかったのかもしれない。