『I,TONYA』

 ナンシー・ケリガン襲撃事件という、フィギュアスケート史に名を残すスキャンダルがあった。1994年、リレハンメルオリンピックの全米代表をナンシー・ケリガントーニャ・ハーディングが争っていたが、そんな中、トーニャ・ハーングの元夫が、ナンシー・ケリガンを殴打した。
 当時から不可解な事件で、その不可解な部分はこの映画でようやくわかったが、当時も特に興味を引いたわけでもなかったので、「はぁ?」とは思ったけど、その背景について思いを巡らせてみたわけではなかった。
 その事件が、今、映画になるドラマを持ちうるのは、現在のアメリカの閉塞感が、突然、この事件の背景に何かを見つけた、みたいな感じ。
 日本でもそうなんだろうけれど、フィギュアスケートをやる子たちは、たいがいお金持ちの子なんだろうと漠然と思っているが、この映画に描かれているアメリカのフィギュアスケートをめぐる状況は、もっと歴然と「階級社会」であるらしく、4歳のトーニャがフィギュアスケートを習おうとリンクを訪ねたとき、いったん断られかけている。
 その理由は単純明瞭で、いかにも貧しいからなのである。それはもう厳密に言えば、ドレスコードというのか、日本人として感覚が分かりにくいが、貧しいからというより、「見るからに」貧しい家の子だからで、一目見て、あなたのお子さんの来るところではないと言われてしまう。はっきりと階級のスポーツなのだ。
 長じて、大会で活躍するようになってからも、トーニャには審査員が高い得点をつけてくれないことが続いて、たまりかねて「なぜ」と尋ねるトーニャに「家庭に問題がある」と答える。
 それをいう審査員の感覚にも呆れるが、しかし、その言葉で、暴力がもとで別れていた元夫が彼女の前に再登場することになる。審査員の言葉にしたがって「家庭」を立て直そうとしたのだ。実際には、審査員の言葉は貧しい家庭の子は差別すると言っているだけのことだが、しかし、厳正な審査員のアドバイスがそうだった以上、そうする以外どうすればよかったか。ということになる。この部分がこの映画のコアだろうと思う。
 「red neck」という単語が聞こえた。トランプ大統領が誕生したときに、私は初めて聞いた単語だった。トランプに投票するのは「red neck」だという具合に。
 アメリカに新たな階級闘争が生まれ始めているということになるだろう。去年観た映画で『ノクターナル・アニマルズ』という、エイミー・アダムスジェイク・ギレンホールのいい映画があったんだけど、あれも、エイミー・アダムスジェイク・ギレンホールの結婚がうまくいかなかったのは、結局、階級がちがったからだと、少なくとも、当事者たちにそう意識されている。
 アメリカ社会が階級社会であるかどうかは、アメリカ人自身が自分たちの社会をそう意識し始めている以上もう議論の余地はない。ちなみに『ノクターナル。アニマルズ』の原作が書かれたのも1994年だったそうだ。
 1994年にはお笑い草だった、か、少なくともそこにドラマを感じることができなかった事件が、今はっきりと切実な社会問題となっているかぎり、この問題は資本主義社会全体に波及していくだろう予感はある。この映画のトーニャは「it's not my fault」と言い続ける。当時は言い訳としか聞こえなかった言葉が、今、一定の説得力を持つドラマをはらんでいるとすれば、社会が変わったのである。
 にもかかわらず、20世紀の社会規範そのままでしか世界を観察できないインテリは退場するしかなくて当然だ。それはヒラリー・クリントンのことなのだし、もしかしたら、バラク・オバマのことであったかもしれない。
 なぜ、今、リベラルが嫌われるかという問いに判りやすい答えは、この映画でトーニャに得点をつけない審査員たちを見れば、一目瞭然だろうという気がした。