『パラサイト 半地下の家族』、『家族を想うとき』を比較してみる

f:id:knockeye:20200118091353j:plain
家族を想うとき
 
 ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』と、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』は、ともに第72回カンヌ映画祭パルム・ドールを競い合った。
 パルム・ドールを獲得したのは『パラサイト 半地下の家族』だった。ケン・ローチ監督は『麦の穂をゆらす風』ですでにパルム・ドールを受賞している。そういうことが影響するのかどうか知らないが、たしかに、ポン・ジュノ監督がずっと無冠なのも落ち着かない気もする。
 両方とも先進国の貧困を扱った映画と言えるが、『パラサイト』の方は、あくまでもコメディーを志向している。と思うのは、貧富の差の描き方が、あまりにステレオタイプすぎる。この映画が韓国社会の何かを伝えてくれるということではないと思う。
 たぶん、主役のソン・ガンホの存在感がなければ説得力に欠けたかもしれない。匂いについての描写にリアリティがあったものの、お金持ちの家族の人たちが、ストーリーに都合よく騙されすぎると感じた。ここにある貧富の差はあくまでもエンターテイメントの設定であって、貧富の差の構造は見えてこない。
 ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』は、重苦しく、救いがないが、切迫したリアリティを感じる。
 原題の「Sorry We Missed You」は、日本で言う「ご不在連絡票」のイギリス版の決まり文句だそうだ。主人公は宅配業をしている。個人事業主として契約させられていて、やっていることは、雇われているドライバーと同じだが、責任はすべて個人で負わされる。
 かつてのイギリスが「ゆりかごから墓場まで」と言われた福祉国家であったことを思うと、隔世の感がある。ケン・ローチ監督には、『1945年の精神』(2013)という「ゆりかごから墓場まで」の具体的政策である「国民保健サービス(NHS)」を始めとした社会保障政策を扱ったドキュメンタリー映画もあるそうだ。
 マーガレット・サッチャーの時代には、「ゆりかごから墓場まで」は、「イギリス病」などと言われた英国の衰退の原因のように言われていたものだったが、最近ではまた潮目が変わってきているようだ。
 高福祉政策が財政を圧迫する、その反動としてサッチャー政権が誕生する、それでもうまくいかず、トニー・ブレアが「第三の道」を模索する、しかし、それもうまくいかず、ブレグジットに賭けようとしている。そういう歴史的な見方もできるかもしれない。だが、その時代に生きている人たちは、目の前の生活に懸命なのだから、民主主義が機能していれば、ゆきすぎた政策には抑制が働く。
 結局、イギリス人はそういう政治のあり方を選択して実行してきたんだと思う。日本の民主主義が機能しないのは、政治が民意に支持した政策を実行しないからだ。
 ブレグジットの是非を選挙に委ねた英国の選択を批判する意見もあった。しかし、とにかく、民意がブレグジットを支持した限り、これを行うということでなければ、政治は永遠に変わらないし、それで問題が解決するわけがない。
 ブレグジットのようなことは日本では起こらないだろう。たかが郵政民営化ですら骨抜きにされてしまう。そして、これがいちばんまずいんだろうと思うのは、郵政民営化に反対したのが左派であったことだ。左派が選挙結果を蔑ろにして、官僚と結託したという記憶はそう簡単に拭えないだろう。
 せめて、民主党政権が何かしらの評価を残せればまた違ったと思うが、郵政民営化どころではない、沖縄の基地移転を置き去りにとっとと逃げてしまったことで、日本の民主主義は焼け野原になったと思う。
 話が逸れてしまったけれど、ケン・ローチ監督のこういう映画が出現すること自体がすでに何かなのだと思う。映画『マイ・ジェネレーション』に映し出された、スウィンギング60's、スウィンギング・ロンドン。ビートルズヴィダル・サスーン、マリー・クワントetcを次々と生み出した輝かしいロンドンを懐かしいと思う。しかし、それよりも、少なくとも民主主義が機能しているという大きな一点に激しい羨望を感じざるえない。