政権からの圧力があれば官僚に責任はないのか?

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 中曽根政権、橋本政権、小泉政権、戦後日本の政治史は、自民党と官僚組織の分捕り合戦にすぎない。
 自民党の政治家なんてみんな世襲みたいなもんだし、官僚組織は組織自体が特殊な生命体みたいなもんだし、どっちをとっても日本に民主主義なんて存在したことはない。
 しかし、官僚支配を野放しにしておく危険については、第二次世界大戦の結果が教えているはずだが、それについても、「天皇の戦争責任」みたいなことを言うと、いかにも進歩的には響くらしいのだが、明治維新のそもそもから、天皇に実質的な権力なんてないことは言うまでもない。
 というより、明治の元勲たちが、実際はない天皇の権力を、さもあるかのように偽ったことが、日本の官僚主義の構造を作ったとも言えるだろう。
 森友問題に関していえば、これは、財務官僚が国会に偽りの資料を提供した、国会に対する裏切りであり、民主主義国家の根幹を揺るがす大問題であるのだが、この問題の矛先が財務省ではなく、安倍政権に向かっているところが、官僚主義国家の不思議なところ。
 安倍政権が圧力をかけたに違いないというわけだが、それはそもそも推測にすぎないし、さらにいえば、たとえ政権から圧力がかかったとしても、国会に偽の資料を提供するようなことは、民主主義国家の官僚は断じてやってはならない。圧力があった、なかったは言い訳にならない。
 にもかかわらず、なにか、野党やマスコミの言い方を聞いていると、政権から圧力があったなら、仕方がない、圧力をかけた政権が悪い、みたいな論調のように聞こえる。
 個人的にはまったく奇異である。
 財務省の官僚が国会で「国会を愚弄しました」と発言しているのに、でも、政権の圧力があったんだったら、「責められないよね」みたいな空気なのは異常。
 「圧力があったから」は言い訳にならない。と、私なら思うところだが、野党とマスコミは「しょうがないよね」っていうスタンスで行くらしい。
 民主党が政権を握っていた時代、官僚に言いくるめられたのかどうか、経済財政諮問会議を廃止してしまった。官僚の思うツボだったのである。多分、前回の民主党政権の経験から、官僚は、「野党が使える」ってことを学習したのだと思う。一部の報道では「内閣人事局が諸悪の根源」みたいなアドバルーンを上げてみているようなので、狙いはここにあるようだ。
 加計問題の時は、文科省共産党にリークしたのである。今回のことでは、財務省立憲民主党を使って世論を誘導するつもりに見える。
 日本に政権交代を担える野党が存在しないことはとても残念だ。
 前回、これについて書いた時に触れたが、立憲民主党ポピュリズムに踊る烏合の衆ではなく、政権を担える国民政党になって欲しかった。
 デモの前でスピーチをして喝采を浴びるようなことにはならないで欲しかった。野党とマスコミには期待できないと考えないといけないようだ。
 案の定、第三者委員会は立ち上げず、問題を司法に丸投げするようである。これについては、前回書いたので今は触れない。

「素敵なダイナマイトスキャンダル」

 この映画は、監督の冨永昌敬による持ち込み企画なんだそうだ。末井昭って人の同名の自伝的エッセーを原作にしている。
 「ダイナマイトスキャンダル」ってのは、ダブルミーニングっていうのもおかしいが、比喩ではなく文字通りの意味で、子供の頃、母親が隣家の息子と関係を持った揚句に、父親が山の仕事で使っていたダイナマイトを使って心中したっていう経歴を持つ主人公で、「母はダイナマイトで自分を都会まで吹き飛ばしてくれたのかも」と述懐したりする。
 母親のその派手な心中が、主人公の運命を変えたことは間違いないが、その後の主人公を見ていると、どちらかというと、主人公が周りの人たちを巻き込んでいったように見える。
 主人公の末井昭って人が、もし何かだったとしたら、その何かは、作家みたいにひとりで紡ぎ出した何かではなく、むしろ、そんなひとりひとりの人たちを、いっしょくたに巻き込んでいく、そういう何かだった気がする。
 その価値には、いったん気がつきにくい。作家の価値ではなく、編集者の価値には。菊地成孔か演じている、「写真家の荒木さん」が、女の子を脱がす時に口にする「ゲージュツ」は、確かに芸術かもしれないし、末井昭が怪しげな雑誌を発刊しなくても、その芸術はどこかで生まれたかもしれないのだけれど、しかし、事実として、その「ゲージュツ」が生まれたのは、その現場に違いなかったのだし、その現場に、荒木さんだけでなく、いろんな人たちが巻き込まれていった。主人公がそういう場を作ったというより、彼自身も巻き込まれていった共同作業に見える。
 それを時代の空気といえば確かにそうも言えるだろうけれど、それは冨永昌敬監督の演出によるところも大きい。街の若々しい暗さだったり、メガネが曇っていたり、なぜか怪我してたり。
 巻き込まれていくのは男たちだけでなく女たちもそうで、この映画を魅力的にしているのは、個性的な女優さんたちであるのはもちろんだ。
 母親の尾野真千子、奥さんの前田敦子、不倫相手の三浦透子、キャバ嬢の木嶋のりこ。特に、不倫相手の笛子を演じた三浦透子は圧巻だった。行動型の主人公の熱意に惹かれていく、受け身の恋のもの狂わしさ。これは脚本も見事だった。
 圧巻で思い出したけど、主演の柄本佑は、原作者の末井昭に「他人とは思えない」と言われたそう。「おかしな男 渥美清」のドラマで主演を演じた時も原作者の小林信彦が褒めていた。
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「シェイプ・オブ・ウォーター」

 レイトショーで、ギレルモ・デル・トロアカデミー賞を獲った「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た。
 つうのも、週刊文春の今週号で宮藤官九郎が褒めてたから。
 なんでも、最近は気に入った映画を繰り返し観るのに凝ってるそうで、敢為の精神でもってアチャチャってなるより、良いってわかってる映画を繰り返し観た方が精神衛生上よろしいらしい。忙しいのだ。
 特に「スリー・ビルボード」は“俺の”「スリー・ビルボード」っていうくらい惚れ込んでいるらしいのだが、“俺の”「スリー・ビルボード」を抑えてアカデミー賞を獲った「シェイプ・オブ・ウォーター」は何ほどのものかと観にいったら、これまた優劣つけがたい傑作だったそう。それで、どっちがいいか確認しようと、その直後にまた「スリー・ビルボード」を観たそうだ。
 私も、「スリー・ビルボード」のあの苦味が気に入っていて、今回のアカデミー賞の作品賞と監督賞に加えて4部門を制覇した「シェイプ・オブ・ウォーター」は、SFだっつうし、どうなってんだろう?とは思ってた。どんなに優れたSF作品が、あの「スリー・ビルボード」のヒリヒリする今の感じを凌駕できるのかな?と。
 しかし、これは見事だったわ。
 ギレルモ・デル・トロ監督は、もうすぐ第2弾が公開される「パシフィック・リム」の第1作で初めて認識したのだったが、あれも良かったけど、ミア・ワシコウスカジェシカ・チャスティン、トム・ヒドルストンを起用して、ラファエル前派とイギリスの耽美主義の世界を紡ぎ出した「クリムゾン・ピーク」を観て、引き出しの豊富さに舌を巻いた。
 「シェイプ・オブ・ウォーター」も、一見するとSFで、確かにSFなんだけど、「スリー・ビルボード」と同じように、今を描いてるんですよね。
 キャスティングも上手。
 「しあわせの絵の具」のサリー・ホーキンス、「扉をたたく人」のリチャード・ジェンキンス、「ノクターナル・アニマルズ」のマイケル・シャノン、「ドリーム」のオクタヴィア・スペンサー、そして、どこかで見たのは確実だけど、どこだったか思い出せないマイケル・スタールバーグ
 「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督といい、メキシコの映画監督は最近勢いがあるのかも。
 ちなみに、アカデミー賞だけでなく、ベネチア国際映画祭の金獅子賞も受賞したんですね。

春めき桜と静嘉堂文庫の国貞展示替え

 村 

鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。

そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。

三好達治『測量船』より

 今年の私は桜の開花を読み外している。
 ハーブガーデンの河津桜はちょっと早すぎたし、一ノ堰ハラネの春めき桜は散り初めていた。
 春めき桜は香りの高い桜なんだが、さすがに散り始めのころともなるとあまり匂わないようだった。
 春木径の春めき桜はちょうど見ごろという情報だったが、あそこは川沿いの並木道なのに、背景が工場なので、景色としては単調になりがちだと思っている。
 もちろん、そぞろ歩いたり、お弁当をひろげたり、スケッチしたりするにはよいのだろうけれど。
 パースペクティブは、一の堰ハラネの方が良い気がする。

それに、ユージン・スミスみたいな坂道があったり。

ここにこましなモデルでも歩いていれば絵になるのではないか。

 この後、展示替えになった静嘉堂文庫の歌川国貞展に行った。ほぼ、全点展示替えだった。
 前にも書いた通り、あるいは、ご存知の通りか、国貞は「二世豊国」を名乗っていたが、二世豊国は、国貞以前にもう1人いるので、現在では、国貞を豊国と称する場合、三代豊国と呼ぶのが普通になっているし、その方がわかりいいんだけど、静嘉堂文庫ともなると、そこは、なんつうのか、堂々と「豊国」のまま放り出していた。
 初代の豊国なのかなと一瞬思ったが、そうではなさそうなのは、年齢が七十いくつとかで、そうなると、初代ではおかしいことになる。
 永井荷風によると、国貞は、豊国を名乗る前のものに良いものが多いそう。そうなのかなとも思った。
 個人的には、今まであまり国貞の絵に感銘を受けたことがなかったが、静嘉堂文庫のコレクションはさすがに良いものが多かった。国貞は長命で多作だったせいもあり、選別は必要なのかもしれない。
 何かグラビアを思わせるような絵だと思う。

《神無月はつ雪のそうか》。「そうか」とは夜鷹のことだそう。初雪の頃というのに裸足のものもいる。こういう愚直な描写は、他の浮世絵師にはない感じかも。

官僚性善説を信じる日本人、天動説を信じるアメリカ人、どっちがバカ?

 森友問題についてはともかく真相を明らかにしてほしい。いろんな人がいろんな事を言っているが、今のところ腑に落ちる説明に出会わない。
 野党が政権の責任を追及したいのは当然だが、それが目的化してしまって、真相がうやむやになる危険は避けてもらいたい。
 立憲民主党は、結成されてまだ半年、とても、政権を運営できる能力はない。旧民主党ですらあの体たらくだったのである。国民は悪夢を忘れていないと思う。今の野党のはしゃぎぶりには既視感があり、個人的にはトラウマを刺激される。
 今、安倍政権を退陣させたとしても、おそらく政権は自民党内での交代になるだろう。そうなった場合、森友問題は安倍政権とともに葬り去られるだろう。そして、おそらくは野党の勢いも風船のようにしぼむ。
 もし、立憲民主党が将来に政権をめざすつもりなら、目前の安倍政権の攻撃にはしゃいでいる場合ではないし、はしゃげる状況でもないはずなのだ。
 立憲民主党に今求められているのは、安倍政権を倒すことではなく、旧民主党の悪夢を払拭することだと言わせてもらいたい。
 旧民主党政権交代を果たした選挙では、今でも忘れがたいが、小沢一郎は、選挙後一週間も経たないうちに、選挙公約を反故にしたのである。マスコミも「公約にこだわることはない」とこれを擁護した。言うまでもなく民主主義を愚弄する行為だった。
 政権交代を果たしたのは、選挙で票を投じた国民ひとりひとりであったはずだが、小沢一郎は、国民との約束をあっさりと踏みにじって平然としていた。いま、またも敵失に(奇しくも敵の顔は同じだが)はしゃいでいる姿が国民にどう映るかを考えてもらいたい。
 民主党に「立憲」の冠を戴いて再出発した立憲民主党が、ポピュリズムに踊る烏合の衆ではなく、立憲主義と民主主義に基づく国民政党であることを示せるかどうかが、今の立憲民主党にとっての課題であるはずだ。主権者が国民であることを忘れて政争にはしゃいでもらいたくないとは、心ある主権者の願いであると思う。
 郷原信郎このブログによれば、今回の書き換えについては、
「公文書偽造罪等の刑法上の『文書犯罪』が成立する可能性は高くない」
そうである。むしろ、問題は、
「国会での議論において重要なポイントとなる記載を削除した『決裁文書の写し』を真正な決裁文書と内容が同一であるように装って提出するということは、議会制民主主義の根幹を損なう行政機関の国会及び国民に対する裏切りであり、到底許容できないもの」
だが、
「そのような行為は、法の想定を超えたものであり、犯罪として処罰することには、もともと限界がある」
ので、
「『国会』が主導的な立場で調査を行うべきであり、福島原発事故の際に国会に設置された『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会』のような、国会での国政調査の一環と位置付けるべきだ。」
と主張している。
 官僚組織が公然と国会を蹂躙するという、法の想定を超えた事件を、国会で決着をつけられず、司法に委ねるとなれば、今後も同じようなことが繰り返されるだろう。顔に唾を吐きかけられても手もあげない奴はナメられて当然だからである。国会議員は国民の代表として国会にいることを忘れないでもらいたい。
 一方で、文書を書き換えたのは、安倍政権の圧力に違いないと言った言説も見受けられる。たとえば、この役人の書いたブログでは、
「国家公務員は贈収賄を含む懲戒処分になるようなことをする人は皆無に近い」
と、まるで「官僚性善説」というしかない事を言っているが、何の根拠があってそう言っているのかわからない。では、裁量労働制についての厚生労働省のデータ隠しについてはどうなるのか?。
 あの時は、厚生労働省の出してきたデータに基づいて答弁をした安倍首相が恥をかいただけでなく、働き方改革の法案自体がガタガタになってしまったが、あれも政治家からの圧力だったとすれば、奇妙な話だ。
 日本の官僚が、政権の圧力に従うようなタマだろうか?。古くは、橋本龍太郎首相が経済財政諮問会議を立ち上げようとした時、官僚が「財政」の二文字を抜こうとした事もあった。官僚の権限への執着の凄まじさは、佐藤優もたびたび指摘している。彼らは政治家も国民も屁とも思っていない。
 むしろ、
「自己保身と組織防衛が行動原理の官僚は、バレないと思えば何でもやります。」
という、岸博幸意見の方に現実味があると思うが、どうだろうか?。
 政権の責任がどう転ぼうとも、財務省に重大な責任があることは動かさない事実である。しかし、今の野党とマスコミを見ていると、まるで、財務省の責任まで政権に転嫁しようとしているように見える。
 安倍政権は、どんなに長くてもあと2~3年のことなのに対して、財務省は未来永劫続く。財務省の体質をそのままに、安倍政権の退陣、あるいは、麻生財務相の辞任が、メインテーマだとすると、立憲民主党の行く末も予測できる気がする。
 予測をいえば、政治力学的に見ると、実質的な綱引きは、自民党財務省の間で行われているだけなので、この両者が落としどころを見つけるのだろう。野党とマスコミは騒ぐだけ騒いで得点を稼ぐ。バカを見るのは国民といういつもの結果になるだろうけれど、いずれにせよ、真相は明らかにしてほしい。

「麦秋」

 TOHOシネマズの午前十時の映画祭で、小津安二郎監督の『麦秋』。
 あらためていうまでもなく、映画史に残る名作。
 「今が一番いい時かもしれないよ」という父親の台詞が、ずしんとくる。
 鎌倉が舞台で、『海街ダイアリー』を連想させる。綾瀬はるか原節子と比較されたりしていたのが、なるほどと納得される。
 鎌倉の家で使っている電話は、まだ黒電話ですらなく、

こんなやつ。これでどうやって電話するのか、詳しく知らないが、交換台を呼び出して、それからつないでもらうらしい。
 そういう時代、具体的に言うと1951年なんだが、そこがホントで、今がウソのような気がする。
 wikiに概略があるので、そちらを読んでもらえればよいが、映画の中では台詞ですこしふれられるだけの「省二」という次男の存在がポイントになっている。
 その不在を中心に映画が回っている。見事としか言いようがない。中心が不在なので、何気ない日常を描いているようで、求心力が強いんだと思う。その日常の奥にあるものに心惹かれてしまう。
 踏切のシーン、『麦秋』の踏切のシーンっていうと、有名だっていうことになるのかどうかしらないけど、海外で上映された時には、そこでどよめきが起こったとも聞いたことがある。それはやっぱり、そこにいたるまでにぐいぐい引き込まれているからで、そこで遮断機が下りて、電車が通り過ぎて、ふっと、いったん息をつくんだと思う。
 wikiによると、脚本の野田高梧は「『東京物語』は誰にでも書けるが、これはちょっと書けないと思う」とも発言していたそうだ。

三菱一号館美術館でルドン

 三菱一号館美術館でルドンの展覧会が始まっているが、今回の呼び物は、この美術館の所蔵で「グランブーケ」と呼ばれる、壁画の一枚がある、その「グランブーケ」とともに、ドムシー男爵の食堂の壁面を飾っていたすべての壁画が、一堂に会して展示されている。
 オディロン・ルドンの年齢とか年代とかあまり考えたことがなかった。時代と関係のない特異点だと思っていたので。
 クロード・モネと同じ年に生まれたそうだが、そう言われると確かに意外。なんとなくもっと年代が降ると思っていた。
 建築の道に進むべくエコール・デ・ボザールを受験したが失敗、その後、パリのジャン=レオン・ジェロームの画塾に登録したがすぐに辞めて帰郷した。
 ジャン=レオン・ジェロームは、この時代の画家のエピソードにときどき登場する。たとえば、ギュスターヴ・カイユボットは、自身も印象派の画家であったが、同時に印象派の画家たちのパトロンでもあって、彼らの絵の多くを所蔵していた。その所蔵品を、ルーブル美術館に飾ることを条件に、国家に遺贈する遺言を残して、45歳で急逝したが、これに反対の論陣を張ったのが、ジャン=レオン・ジェローム
 結局、没後、2年間もすったもんだした挙句、38点のみ受け入れることで決着した。今から振り返ると、ルーブル美術館は億単位の大損をしたことになる。
 ジェロームは、写真が将来自分の絵にとってかわるだろうと、写真を歓迎していたそうだが、そう聞いて彼の絵を見ると、おそらく写真を参照しつつ描いているだろうと思われる。それ自体、珍しいことではないが、構図も写真そのものというのは珍しいのではないか。ずっと忘れられた存在だったが、今また人気が出ているそうだ。「ゲームの絵みたい」ということらしい。ゲームの絵って、非現実的な世界を写真みたいに描くわけだから、ありもしない奴隷売買を扇情的に描いたジェロームの世界そのもの。往時は新古典派と目されていたが、その物語が、時代が変わって、キッチュに見えるってことである。
 ルドンの絵は、印象派以上に、ジェロームとは対照的に見える。印象派の画家といって、ひとくくりにできるものでもないが、彼らは対象をどう捉えるかが最大の関心事だった。たとえば、モネがまさにそうで、《死の床のカミーユ》などは、いま臨終を迎えたつれあいカミーユの「もはや動かぬ顔に死が押しつけた連続した色合い」を写し取ろうと、狂ったようにスケッチブックに筆を振るい続けた。
 しかし、ルドンのモチーフはそもそも存在していないか、存在したとしても何かの証しとして存在していた。ルドンはごく若い頃の習作からすでにそうしたサインを探し求めているかのように見える。
 個人的には、ルドンといえばこの

『夢想(わが友アルマン・クラヴォーの思い出に)』6.「日の光」。
 これはけして写真には写らないだけでなく、ルドンでなければ絵にも描かないだろう。でも、これが何なのかということについて、あれこれ言われるのをルドンは嫌ったらしい。「アルマン・クラヴォーの思い出に」という、アルマン・クラヴォーは植物学者だったが、ボードレールエドガー・アラン・ポーをルドンに紹介したのは彼だそうである。ちゃんとした学者で「車軸藻」の研究で知られていたそうである。
 ここに詳しいことが書いてあった。帰郷後絵を学んだロドルフ・ブレスダンについても、ここを参照されるとよい。