クドカンが『ボヘミアン・ラプソディー』を激賞

 今週の週刊文春で、宮藤官九郎が『ボヘミアン・ラプソディー』を褒めてる。

 ライブ・エイドのDVDと見比べたら、その再現の忠実さがハンパないそうだ。途中で水を持ってくる男の髪型までいっしょだとか。

 こないだ、なんでこの映画が受けてるんだろう?と書いたばかりなんだけど、なるほど、その熱量なんだね。

 宮藤官九郎の中では、『スリー・ビルボード』が今年のベストに確定してたらしいんだが、今、『ボヘミアン・ラプソディー』がその座を脅かしてるらしい。

 予告編がショボかったので観る気なかったんだけど、これは観るべきかもな。

『a ghost story』

 たとえば、これから観る映画を選ぶ規準も人それぞれだろうと思うけど、この『a ghost story』の場合は、『マンチェスター・バイ・ザ・シー』でオスカーを獲得したばかりのケイシー・アフレックと、『キャロル』、『ドラゴンタトゥーの女』のルーニー・マーラが選んだ脚本なので、滅多なことはあるまいということがひとつと、もうひとつは、横浜で、ジャック&ベティで上映しているということもある。あの映画館のセレクトはまず間違いないので。
 さらには、いつも手厳しいNewsweek日本版の映画評が、結構熱の入った褒め方をしていたのと、それから、実はこれが言いたいのだけれど、ネットで変な貶しかたをしているブログを見つけて、貶している風を装いつつ逆に褒めてんのかな(?)と思ったぐらいだが、どうも本気で貶してるらしく、こういう貶しかたをされるってことは、これはたぶん面白いぞって、直感的にそう思ってしまった。「誉め殺し」の逆パターン。あれを意図的に書けたら高等テクニックだと思うけれど、たとえできたとしても危険すぎるんだろう。勉強になったはおかしいけど、考えさせられた。

 それはともかく、何より

この造型の力強さ。ランダムに拾ってきて並べてみると






 
 映画の後半3分の2くらいかな、ずっとこの姿で画面に佇む、あるいは歩く。少し激しいシーンもありますが、基本は、沈黙のまま、さまよい歩く。能を意識したってことはないと思いますが、「秘するが花」ってところはありました。
 夢って、見ている間はとてもリアリティーがあるのに、覚めるとそれがとりとめなくなる。うなされてとびおきたのに、どんな夢か憶えていなかったり、ちょっとうたた寝しただけなのに、長い旅を終えたようにスッキリしていたり。
 たぶん、誰もが経験したことがあると思う、そんな夢の感覚を追体験するような、そんな映画だった。もしかしたら、人が死ぬ一瞬にみる夢はこんな感じかも知れない。
 寺山修司の『草迷宮』とか観たことある人は思い出すかも。『シックス・センス』とか『君の名は。』みたいなトリックがあって、「幽霊あるある」で終わるかも思いきや、きちんと収束したのも気持ちよかった。
 上映館が少ないけどオススメできます。

バロヴィエール一族展


 17日、大貫妙子の「風の道」が頭に浮かぶような良い天気だったので、箱根ガラスの森美術館に「バロヴィエール一族展」を見に出かけた。文字通り《風にそよぐグラス》というのがある。展示ではつっかい棒があるが、信じられないけど、自立するらしい。


自立する動画はこちら



 ヴェニス・セレナーデ・デュオ特別コンサートというのがあった。マッシモ・トゥリーニという人のヴァイオリンと、ロベルト・サルヴァライオという人のアコーディオンで、お二人とも「アストル・ピアソラ国際コンクールで優勝経験があるそうで、この日もアストル・ピアソラを一曲演奏した。
 アストル・ピアソラについては、12月1日から、bunkamuraで『ピアソラ 永遠のリベル・タンゴ』というドキュメンタリーが封切られるそうだ。
 それから、ガラスついでに今年の春、サントリー美術館で見た清朝のガラスコレクションの写真も上げておきます。
 もともと、ペルシャからもたらされるガラスに憧れて、磁器を作り始めた中国の人たちだったが、青磁白磁を発明してしまってから、もうガラスのことは忘れてしまったのかと思ってたら、清朝の頃になって、こんな典雅な硝子器を作っていたそうだ。







ヴェネチアガラスの繊細さに比べるとグラマラスに思えます。

『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』

 『ボヘミアン・ラプソディー』はどうしてこんなにヒットしてるんだろうと考えてしまうのは世代のせいだろうか。クイーンが伝説のロックバンドだという気がしない。日本ではとにかく女の子に人気があったと記憶している。『オペラ座の夜』のLPは持っていた。「ボヘミアン・ラプソディー」の壮大さには魅了されたものだった。が、この映画がどうしてこんなに受けてるのかは全く不思議。でも、ふだん映画を観ない人が観に行く映画って、これなんだろうなとはうすうす思う。
 そういうわけで、『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』って映画について書くのであるが、われながら、端っこすぎないか、大丈夫かなと不安になる。
 この映画は、ペギー・グッゲンハイムの伝記を書いた作家のジャクリーン・ボグラッド・ウェルドが、ペギー・グッゲンハイムにインタビューしたテープが倉庫から発掘されたそうで、それに基づいて、一本ドキュメンタリー映画を仕上げたってものである。『ヒッチコック/トリュフォー』と同じフォーマットなので、あれに耐えられた人はこれにも耐えられる。

ペギー―現代美術に恋した“気まぐれ令嬢”

ペギー―現代美術に恋した“気まぐれ令嬢”

 グッゲンハイムっていう珍しい名前については、美術館めぐりを趣味にしていると、もちろんよく目にする。ペギー・グッゲンハイムの名前も、ジャクソン・ポロックの展覧会のときに目にしたか、あるいは、他のときにか、なんとなく知ってはいた。
 でも、ペギー・グッゲンハイムが、グッゲンハイム家のblack sheep、skeleton in the family closetだったとは知らなかった。大富豪と言いつつ、タイタニック号事故で死んだペギーの父親は、一族のうちではさほどでもなかったそうで、1919年、ペギーが21歳の時、手にした遺産は43万ドルだった。でも、「だから従兄弟の経営する本屋でアルバイトしたの」は、ジョークなのだ。このとき、半年ほどペギーが働いていた「サンワイズ・ターン」は、ただ本を売るだけでなく朗読会を開いたり、絵も展示していたというから、その後、ペギーがロンドンで始める「グッゲンハイム・ジューヌ」や、戦火を逃れてNYで始めた「今世紀の芸術」といった画廊にインスピレーションを与えたかもしれない。
 遺産を現在の金額に換算すると、38億円くらいだそうだ。たしかに月旅行には行けないかも。ただし、剛力彩芽どころではなく、ヨーロッパで暮らしていた頃は、現代アーティストのほとんどとベツドを共にしていた感さえある。しかも、それを悪びれず(現に何も悪くないのだし)、帰米した後に本に書いた。スキャンダルになったが意に介さなかったみたい。
 インタビューでは、「本には書かなかったけど」と、ジャクソン・ポロックとも一応試そうとしたことも告白している。でも、その時はうまくいかなくて、イラついたポロックはパンツを丸めて窓の外へ放り投げたそうだ。ポロックの方が、14歳年下だけど、ずっと保守的だったと思う。アメリカ人だし。それとも、アル中の後遺症が残っていたか。ペギーはポロック夫妻を「恩知らずな人たちよ」と語っていた。
 ペギー自身、彼女の最大の功績は、ジャクソン・ポロックを世に出したことだと、これは、この映画の冒頭で、そう語っていた。これはしかし、唯一のではないのはもちろんで、ナチスの侵略が迫るパリから、多数の芸術家たちをNYへ移住させたのも彼女だった。その時の記念写真がこれ。

ほとんど、ノアの方舟ピエト・モンドリアンがいるが、彼がジャクソン・ポロックの絵の前に立って「いや、アメリカで目にした絵の中で最も感銘を受けた」とペギーに言わなければ、ポロックの運命は変わっていたかもしれない。
 マックス・エルンストとは、渡米後に結婚した。今思いついたけど、アメリカでなければこの結婚という事態は出来しなかったかもしれない。マックス・エルンストは美男子で、中心にいたいタイプだったとペギーは言っている。絵から受ける印象とは違う。マックス・エルンストが特に美男子とは思ったことがなかったが、そういえはそうかも。ペギー自身は鼻が大きいのを気に病んでいて、整形手術も試してみようとしたことがあるくらいだそうだ。しかし、どこまで本当なんだろうか?。得意の「つかみ」ネタだったんじゃないだろうか。
 いずれにせよ「恋多き女」とかfemme fataleとかいう役回りに満足するつもりはなかったようだ。あくまで結果としてついてきたという感じ。だから、かどうか知らないが、そういうことがスキャンダルになるアメリカが退屈だったみたいで、晩年はヴェネチアに移り住んだ。パラッツォ・ヴェニエル・ディ・レオーニという邸宅は、今は美術館として公開されている。
 パンフレットに、東京国立近代美術館主任研究員の保坂健二朗さんが書いた文章によると、宮本百合子がほぼ同じ年で、もしかしたら、ペギーが働いていたNYの本屋ですれ違ったんじゃないかとか書いていた。
 私が思い出すのは、金子光晴の奥さんの森三千代だな。森三千代こそペギーと同じパリの空気を呼吸していたに違いない。ペギーが戦後に企画した「20世紀の31人の女性展」の作家の中ではレオノール・フィニとか。レオノール・フィニはレズだとばかり思ってた。

こういう絵を描く女性がレズじゃないなんて思わないでしょう。ペギー・グッゲンハイムは「女性の自由と権利の“荒れた”見本」などと言われたそうだが、この頃の女性の自由奔放の方が、ネット社会でちっぽけな正義感を振り回している連中よりずっと好ましく思える。そういう正義感は、結局のところ、全体主義に直結する。なぜなら、「多勢に無勢」という数の論理以外に裏付けがない正義だからだ。森三千代は自分の息子を兵役拒否させた。それを「公共心のなさ」とは言わない。自分の息子をむざむざ殺させて、そのあとは靖国の妄想に加担して、他人の子も殺そうとするのが公共心と言えるか?。自由であることに代償はあるだろう。でも、不自由であることは目も当てられない。

「被害者の心情=正義」ではない

 韓国での徴用工をめぐる判決が日本政府の反発を招いている。
 それもそのはずなので、「完全かつ最終的に解決された」は、1965年のときも、2005年のときも、日韓両国共同で確認した結論であった。日本が一方的に宣言したわけではない。2005年のときは、文在寅大統領も、当時の盧武鉉大統領の首席補佐官の立場にいて、これに関わっていた。にも関わらず、今回だけではなく、去年の夏にはすでに、就任100日の記者会見でこの問題を蒸し返していた。けして、司法の判断にすぎないとは言えない。

 それにしても、慰安婦問題が盛り上がってたころに、「徴用工問題は解決済みだけれど、慰安婦問題は・・・」みたいな韓国の人の意見も目にした記憶があるのだけれど、あの人たちも今はだんまりを決め込むつもりだろう。そのときどきで、自分に都合のいいことだけわめき散らすという、論理の一貫性のなさは、そのまま倫理観のなさなのである。

 ニューズウィーク日本版に徴用工判決が突きつける「日韓国交正常化の闇」 韓国大法院判決全文の熟読で分かったことという記事があったので読んだ。2人の裁判官の補足意見には
大韓民国政府と日本政府が強制動員被害者たちの精神的苦痛を過度に軽視し、その実像を調査・確認しようとする努力すらしないまま請求権協定を締結した可能性もある。請求権協定で強制動員慰謝料請求権について明確に定めていない責任は協定を締結した当事者らが負担すべきであり、これを被害者らに転嫁してはならない」
とあるそうだ。
 どういう「可能性」があるか知らないが、締結されたのは事実なのであって、法的には「完全かつ最終的に解決された」と両国間で確認している。「被害者」の心情に立てば、確かに、完全な解決などというものはないだろう。しかし、だからこそ、法的な解決が必要になるのだ。「被害者の心情」が正義ではない。

 韓国の司法といえば、思い出されるのは「対馬仏像盗難事件」で、日本の寺から盗まれた仏像が、韓国の寺で発見された際、「これは倭寇に(!)強奪されたものなので返さない」という主張を裁判所が認めてしまった。あれが「正しい」で通ってしまう司法における「正しさ」にお付き合いしてられない。
 韓国は、「和解・癒やし財団」の解散を一方的に決めている。この財団は、日韓両国が合意して元慰安婦の権利回復のために設立したものだったはずなのである。アジア女性基金の時もそうだが、日本の努力はことごとく踏みにじられてきた。
 口先ではいかにも人権派的なことを言っているが、その実、世界を吹き荒れているナショナリズム、それもかなり先鋭的なその一端にすぎない。BTSが原爆Tシャツを着ること自体はともかく、それをめぐる韓国の人たちの論調にはショックを受けた。これはもう、「日本人に対する差別行為」と言っていいと思う。日本では、ヘイトデモがあれば、カウンターデモがそれを圧倒するのにもかかわらず、韓国では、今や、日本人に対する差別行為が、大手を振ってまかり通っているというべきで、この危険な事態を、国際社会に訴えていかなければならないのではないかと思う。

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』

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 ニコラス・ケイジの映画は、とりあえず観ておこうと思ってた時期もあったが、こう矢継ぎ早に上陸して、しかも、大抵が単館上映。その上、あっという間に終了してしまう、というのは言い訳かな。正直言って、ニコール・キッドマンと共演した『ブレイクアウト』のときのメガネがイヤで、それから見なくなった。
 それでも、『ゴーストライダー2』、『ハングリー・ラビット』、『フローズン・グラウンド』は観てますね。ニコラス・ケイジサミュエル・L・ジャクソンモーガン・フリーマンは、とりあえずそこにいれば映画が成立するって気がします。
 『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』は、これはもう、完全な「カルト」&「オタク」映画でしょう。
 いつの頃か、80年代か90年代か、こういうのを名作とか、問題作とか呼んで、安直な伝説を作るのが流行った。取りも直さず、それが「オタク」ってことだった。今、そういう気分に浸って、もう一度、こういうのを賞賛する気になるひとは少ないと思う。この映画が悪いってわけじゃなく、サブカルチャーを珍重するのがもう気恥ずかしい気がする。
 『キックアス』は、クロエ・グレース・モレッツの「ヒット・ガール」の存在が、あれを単なる「カルト」映画にさせなかったが、この『マンディ』には、残念ながら、そういった突出した要素はないと思う。
 カルト映画のパロディで、実際、客席には何度か爆笑が起こったが、それでも、なんとなくパロディに徹しきった感じがしないのは、パロディの元ネタがサブカルチャーだからなんだろうと思う。パロディをパロディにしているみたいな気がする。
 それともう一点は、トランプ政権下のアメリカの殺伐さみたいなものに自然と連想が及んでしまうからだと思った。本気で、トランプを大統領にしてしまう国を舞台にすると、全てのパロディが色褪せても仕方ないんじゃないだろうか。たぶん、これは監督がカナダ人だから成立した映画なのかもしれない。
 監督インタビューがここにあった。主役を演じるニコラス・ケイジが夢に出てきたそうである。

フィリップス・コレクション展

 ワシントンのフィリップス・コレクションが今年で創立100年だそうで、三菱一号館美術館としては、ジャルダンやルドンの展覧会などで、作品を借用してきた縁もあり、館長の高橋明也さんの個人的な関係もあるのだろうけれど、今回、フィリップス・コレクションそのものをテーマにした展覧会を企画したそうだ。
 コレクターっていう人たちは、絵にひたすらカネを使う人たちのことで、たまたま絵を売るとしたら、また別の絵を手に入れるためにそうするので、カネを得るためではない。
 ZOZOの前澤さんが、月旅行に行くことが話題になった時に、「めぐまれない人たちのために使ったら?」みたいな批判があったと聞いたけれど、なにかしらボヤけた印象の批判だと思った。お金があれば、めぐまれない人が救えるというのは、怠け者の妄想だと思う。お金の使い方としては、月旅行はともかくとして、名画をコレクションすることは、たぶん最適解に近いのだろう。カネとは何かは、実のところよくわからないが、とにかく、そういうカネがこの名画の向こうに消えていった。
 たとえば、ドガとか、ルドンとか、エルンストとか、画家の生涯に焦点を当てた展覧会も面白いけれど、コレクターに注目してキュレーションしても、同じように見応えのある展覧会ができるのは、この人が良いコレクターであるということと、これらが名画であるということ以上の何かである。
 たとえば、キュビズムの絵について、ピカソではなく、ブラックの絵の方が多いそうで、「ブラック・ユニット」と、フィリップス氏が名づけていた作品群があるそうだ。

ブラックのこんな絵は初めて観た。私も、キュビズムの画家としては、ピカソよりブラックの方が好きだ。ピカソキュビズムは、ちょっとやってみただけって感じがするのに対して、ブラックはキュビズムに魅了されたようにみえる。今年は、パナソニックの汐留ミュージアムで、ブラックの絶筆(と言っていいのかどうか)メタモルフォーシスという作品群を観たが、これは素晴らしかった。
 それから、オノレ・ドーミエの《蜂起》や、シャイム・スーティンの《嵐の後の下校》を熱烈に支持しているのは、ダンカン・フィリップスの生きた時代を感じさせる。大富豪も「私たちアメリカ人」という帰属意識を持っていた時代。それどころか、「私たち民主主義者」という意識が、信じられた時代であり、その時代のアメリカ人の方が今より幸せだったはずだと私は思う。
 そして、ここでもまたボナールの名品に出会うことになる。


 ボナールを巡る毀誉褒貶の激しさがわたしには面白い。突き詰めれば好き嫌いにすぎないので、論争にはなっていないようだが、好きな人は熱烈に好きなようで、しかも、好きな人の気持ちもキライな人の気持ちもなんとなくわかる。このダンカン・フィリップスに関して言えば、ピカソよりブラックが好きなら、そりゃボナールは好きだろう。
 こういう個人コレクションの面白いところは、有名な画家の絵でも、普段あまり観ないような絵が見られる。さっきのブラックもそうだが、

このコンスタブル。コンスタブルは、ターナーと並び称された英国の風景画家だが、いままでピンとくる絵に出会ったことがなかったが、この絵に輝いている白の色は素晴らしいと思う。
 それから、コローは

かの「銀灰色」ではない絵をこういうコレクションの中で観るのは新鮮だ。
 そのほかにも

デュフィ

マティスなど。ここに作品リストがあります。まさに名画ばかりで、観る人によって、まったく違う感想になるだろう。
 このブログを検索してみると、フィリップス・コレクションは、2011年に、アメリカの現代絵画の展覧会を観た。エドワード・ホッパーなど「アシュカン・スクール」と言われる人たちの絵を観た。あれも素晴らしかった。オスカー・ココシュカとフランシス・ピカビアの絵はいつかまとめて観てみたい。