ラファエル・ソト at ESPACE LOIS VUITON TOKYO

 4月6日の土曜日に大岡川に夜桜見物に行ったのは書いたが、その昼間に、鎌倉にも花見がてらの散歩に行った。実をいうと、その月曜日、4月1日、「令和」という元号が発表された日だが、休みがとれたので、目黒川の桜も観てきた。が、その前に、ラファエル・ソトを観てきた。
 休みが取れたと言っても、風呂場の換気扇の修理に立ち会わなければならないためだったので、1日フルに使えるわけでもなく、1日だから、映画でも観に行こうかと考えていたが、予定では午前中と言っていた修理が、手違いで午後になり、そうなると、さらに選択の幅が狭まる。月曜日だから、たいがいの美術館は閉まっている。検索した結果、表参道のESPACE LOIS VUITON TOKYO というところで、ラファエル・ソトを展示しているのと、目黒の百段階段なら営業中ということだったので、そこにいくことにした。で、そのついでに目黒川の桜も観てきたんだった。

 私は、1990年に伊丹市立美術館でやった展覧会で観て以来、ラファエル・ソトのキネティックアートが大好き。だが、これが言葉で説明しにくい。

 トリックアートとかトロンプルイユとかいうと、ちょっと違うのは、上の動画を見てもらえばわかるはず。目をだましているわけではない。でも、あるはずのないものが見えてる気がする。が、でも、ほんとは、あるものがありのままに見えてるだけなのである。とても不思議な体験ができるのだけれど、言語化しにくい。
 キネティックアートというしかない。鑑賞者が視点を動かしながら見ないと、何のことかわからない。今回の展示でも、写真にすると

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Jesus Rafael Soto

これだけのこと。その意味では、動画が気楽に楽しめる、今こそラファエル・ソトの時代なのかも。
 今回の展示はこの作品ひとつだったのが悲しかった。上のニューヨークの展示くらい数がまとまってあれば、魅力が伝わると思います。あるいは、ふたつめのヒューストンのくらい大きいとか。

『マイ・ジェネレーション』、マリー・クワント、ヴィダル・サスーン、ビートルズ

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マイ・ジェネレーション

 この映画の案内役、マイケル・ケインが老作曲家を演じた『グランド・フィナーレ』(原題『Youth』)はすばらしかった。まだご覧になってない方には是非おすすめしたい。

 今回の映画『マイ・ジェネレーション』は、しかし、このイギリスの老優が、映画の魔法で、デビューしたばかりの60年代にもどって、「スウィンギング・ロンドン」、「スウィンギング’60s」と呼ばれた当時のロンドンを案内してくれる。まるで、大瀧詠一の「1969年のドラッグレース」みたいに、アクセルをすこし踏み込んで。
 60年代のイギリスといえば、何といってもザ・ビートルズ。文字通り、世界を席巻した。高嶋ちさ子のお父さんが呼んで日本にも来た。というわけで、どうしてもビートルズだけに目を奪われがちなのだけれど、この映画のなかで誰かが言っていたけれど、「ロンドンがビートルズを生んだのであって、ビートルズがロンドンを生んだのではない」というのが、半世紀の隔たりを経て眺めてみるとたしかによくわかる。

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 Mary Quantの髪を、Vidal1 Sassoonが切ってる。ってこう書くと、21世紀の今では、一瞬、何を言ってるかわからない。でも、60年代のロンドンではそのふたつの名前は、いままさに、センセーションを巻き起こしつつあるふたつの顔だった。
 ヴィダル・サスーンについては、ここの美容師さんが詳しく書いているのでリンクを張っておきます。
 
www.takumaiwata.com

 Mary QuantのファッションとVidal Sasoonのヘアカット、結局、今に至るまで、誰もそれを超えていないと思う。もし、何の制約もなく、おもっきり自由におしゃれに、と考えたら、この人たちが頭に浮かぶのではないだろうか。ちなみに、マリー・クワントの大規模な回顧展が2019年の4月から2020年の2月まで、イギリスのヴィクトリア&アルバート美術館で開催されるそうだ。

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 これは、デビッド・ベイリーが撮ったジョン・レノンポール・マッカートニー。私の知っているかぎりでは、ビートルカットといわれるこの髪型は、アストリッド・キルヒヘルの発案だったはずだが、こうして当時のロンドンのファッション・シーンを目の当たりにすると、奇をてらったんじゃなくごくごく自然な提案だったと納得できる。プレスリーの真似をしてポマードでリーゼントに固めていたハンブルグ時代のビートルズをアストリッド・キルヒャーが写真に撮っている。

Astrid Kirchherr With the Beatles

Astrid Kirchherr With the Beatles

Astrid Kirchherr: A Retrospective (Victoria Gallery and Museum)

Astrid Kirchherr: A Retrospective (Victoria Gallery and Museum)

  • 作者: Matthew H. Clough,Colin Fallows
  • 出版社/メーカー: Liverpool Univ Pr
  • 発売日: 2010/11/15
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メジャーデビュー前のキャバーンクラブ時代のビートルズを「わたしのビートルズ」と思っていたコアなファンがいたことは事実だし、そのころのビートルズの輝きを想像するとワクワクしてくるのだけれど、ブライアン・エプスタインが世界戦略としてスウィンギングロンドンを選んだのは当然だった。一瞬、シェイスタジアムの映像が挟み込まれたけれど、彼らはスウィンギングロンドンも一緒に連れてきたのだ。ロンドンの方がアメリカよりもずっと若かった。そういう時代があったということに、あらためて驚嘆する。

 この映画の中でも、ジョン・レノンベトナム戦争について発言するシーンが少し出てくる。ポール・マッカートニーはすこし穏健な発言なんだが、このあたり、ジョン・レノンはイギリス人で、ポール・マッカートニーアイルランド人なんだなぁと。もちろん、ベトナム戦争に批判的でない人なんていなかった時代なんだが、イギリス人とアイルランド人では発言の仕方が変わってくるんだと思う。
 ちょっと映画の話からそれるけれど、ビートルズのメンバーは一度だけ、エルビス・プレスリーに会っている。ビートルズのメンバーはプレスリーが好きだったけれど、プレスリービートルズが嫌いだった。たぶん、プレスリーにはビートルズが彼の亜流に見えたはずなのだ。たしか、ジョン・レノンはのちに、「エルビス・プレスリーは軍隊に入った時に終わった」と発言したと記憶している。
 ロン・ハワード監督がビートルズのツアーを追った「THE BEATLES EIGHT DAYS A WEEK THE TOURING YEARS」にはでてくるけれど、1966年には、有名な「ジョン・レノンのキリスト発言」という事件があった。Wikiを調べてもらえばいいのだけれど、一応引用しておくと
キリスト教は衰えていくだろうね。消えて縮小していく。議論の必要はないよ。僕は正しいし、そうだとわかるだろう。今では僕たちはキリストより人気がある。ロックンロールかキリスト教、どちらが先に消えるかは分からない。キリストは良かったけど、弟子は鈍くて平凡だった。僕にとっては、弟子が歪めてしまったせいでダメになったんだと思えるね。」
というインタビューでの発言だった。イギリスでは「あはは」くらいの反応だったらしいが、アメリカでは大騒動になった。KKKがビートルズのレコードを集めて燃やす、文字通りの「炎上」騒ぎになった。
 でも、改めて思うのは、この発言は、ただの冗談ではなくて(まあ、冗談であってもかまわないのだけれど)、60年代という時代をよく表している。「ROMA」について書いたときに、マルグリット・ユルスナールが、フロベールの書簡集のなかに見いだした、忘れがたい一句、
キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期があった」
は、1960年代にも当てはまるような気がすると書いたのは、ジョン・レノンの発言にもあらわれているこの気分はそんなに突飛なものではなかったのだろうと思えるからだ。マルグリット・ユルスナールが『ハドリアヌス帝の回想』を出版したのは1951年だった。神と現人神の国で戦われた2つの世界大戦が終わった後、まだ神々はなりをひそめて、そのころの若者はひとり人間として立っていたのではないかと思う。
 比類なき時代の比類なきロンドン、おそらく、ジョン・レノンのように口には出さずとも、自分たちはキリストよりカッコいいと思っていたはずだ。そうでなければミニスカートなんてはけますか?。

 ロンドンの女の子たち。マリー・クワント自身がキュートだけれども、デビッド・ベイリーの彼女だったジーン・シュリンプトン。

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Jean Shrimpton


 日本の「カワイイ」の原型はこの人だと思った。Twiggyがこの時代のアイコンになっていく感じはあるけれど、Twiggyの目の大きさと体の細さは、すこし観念的すぎるとさえ感じる。しかし、スウィンギング60’sと日本の「カワイイ」が共有しているのは、フラットであることで、それは、神の視点の排除だと私には見える。神だって、人間の想像に過ぎないじゃないですか。だったら、神の権威を吹聴して回ってるやつより、自分は神より人気があると思ってるやつの方が断然カッコいいいと言いたいだけです。

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twiggy

ラジオ日本開局60周年特番 大瀧詠一『ゴ―・ゴ―・ナイアガラ』ベストセレクション

 ラジオ日本開局60周年特番 大瀧詠一『ゴ―・ゴ―・ナイアガラ』ベストセレクションというのが去年のクリスマス頃からやってたそうだ。全然気がつかなくてショック。最終回だけ聴いたが、とりあえず、ここ最終回だけは、radikoのタイムフリーで週末までは聴ける。

ラジオ日本開局60周年特番 大瀧詠一『ゴ―・ゴ―・ナイアガラ』ベストセレクション(終) | ラジオ日本 | 2019/03/31/日 | 25:00-26:10 20190402002201

www.jorf.co.jp

『限界芸術論』、柳田國男、柳宗悦、宮沢賢治、ヨーゼフ・ボイス

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

 買ってしばらく放置していた、鶴見俊輔の『限界芸術論』を読んだ。よくある「サブカル最高!」みたいな内容だろうなと思っていたが違った。ファインアートとサブカルを一般には芸術と認識しているだろう。鶴見俊輔が「限界芸術」と呼んでいるのは、もっと辺縁で、それは純粋芸術から遠いという意味での辺縁というよりも、芸術が芸術ならざるものと交じり合う境界の曖昧さとしての辺縁にある芸術を「限界芸術」と名付けている。子供の遊び歌だったり、修学旅行だったり、そこら辺の捉え方の自由さは、現代芸術のインスタレーションやパフォーミングアートを軽く凌駕している。限界芸術論自体は、柳田國男柳宗悦宮沢賢治まで書いて未完に終わっているのが残念なんだが、実際に、鶴見俊輔の言う意味で、意識的に限界芸術を実践しようとしたのは、宮沢賢治しかいなかったと思わないでもないので、刺激的な宮沢賢治論が読めてよかった。宮沢賢治の農村芸術は、アンガージュマンというより、ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」という在り方にずっと近く感じられる。柳田國男柳宗悦宮沢賢治と線を結んだ先にヨーゼフ・ボイスが見えるという感覚はスリリングな体感だ。

 『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』という映画について書いたときに、彼の「社会彫刻」という言葉について、それは、フランスの思想家たちの用語の「アンガージュマン(社会参加)」と言い換えられるかもしれないと考えてみたのはほんとのところだった。しかし、「アンガージュマン(社会参加)」と言ってしまうと、いかにも芸術家がどこか社会の外にいて、そこから社会に降臨してくるような感じがする。
 それに対して、ヨーゼフ・ボイスのように「社会彫刻」といえば、石工が岩山から石を切り出すように、「社会」は、面と向かっている世界から芸術家が切り出してきた素材であり、石が彫刻家のノミによってビジョンを手に入れるように、素材としての社会は、芸術家のパフォーマンスによって、はじめて何かになる。
 「社会参加」という言葉では、最初から、社会と芸術の乖離が前提とされているのに対して、「社会彫刻」はそうではなく、芸術家の行為によって、社会と芸術が同時に出現して、お互いを規定しあう。
 ヨーゼフ・ボイスは確信犯的に、社会を挑発し撹乱しようとしたが、このようなスタイルだからこそ挑発と撹乱ができた。いま、21世紀現在のいわゆる「パフォーミングアート」を拝見するかぎりにおいて、「これアートで、あたしアーチストなんで、けして怪しいものじゃありません。もうすぐ終わりますから。おじゃましてすいませんね」とでもいいたげな、小市民的な、あるいはYouTuber的な、毒にも薬にもならないものばかりになるのは、初めから挑発の意志がないか、もし、挑発する意思があったとしても、何が挑発になるのか、言い換えれば、社会という素材のどこに、「挑発」というノミを入れればいいのかがわからないのだろう。
 思えば「社会彫刻」という独創的な言葉がすでに挑発だった。「パフォーミングアート」という凡庸な言葉にとどまりつづけるかぎり、現存の現代芸術家はだれひとりとしてヨーゼフ・ボイスを超えられないだろう。
 たとえば、みうらじゅんのやっているようなことを「これはアートだ」とか、熱弁をふるいたがる傾向がある。しかし、みうらじゅん自身が「アート議論は勘弁」といっている。受け手側としても「アートだからどうした?」という気持ち。おそらく評論家だけが、これはアート、あれもアートと、つまり、アメリカ大陸を発見したコロンブスでありたいのだろうが、アメリカ大陸の発見は、西欧の一方的な視点からの言い方にすぎず、先住民にとってみれば、発見どころか、それは、彼ら自身の社会の崩壊の始まりだった。それは、ヨーゼフ・ボイスが≪私はアメリカが好き、アメリカは私が好き≫というパフォーマンスで表現したことでもあった。
 これもアートあれもアートとアートの標本を集めまわって、その実、社会には背を向けているディレッタンティズムが、社会とアートをどこで切り分けるか、社会とアートを分断する、そのナイフの入れ方に夢中になっている現実逃避の姿はグロテスクだ。たとえば、山下清を「日本のゴッホ」とか言ってみる態度である。山下清の絵は私も好きだ。たしかに、点描派に分類できないではないかもしれない。が、ゴッホではない。山下清というまったくオリジナルな画家をゴッホという西洋絵画史の画家になぞらえてみなければ何かを分かった気がしない、そうした、自己本位の価値観を完全に抹殺しようとする態度はどこから来るのかといえば、単なる西洋コンプレックスというよりも、そうした自己の価値観が他者と確かにつながっていると感じられる社会の存在を信じられないからである。それがグロテスクなのだ。
 未知の絵ををよいと思う直観でさえも、子供のころからしっかり勉強して身につけた西洋美術史の文脈でしか言い表すことができない。そんなサブカルのカリスマならいくらでも名をあげることができるだろう。ところが、西洋の美術は西洋の美術で、彼ら自身の社会に根を張っているので、日本のゴッホ、日本のピカソ、日本のダ・ヴィンチなるものに何の興味もなくて当然、むしろ、19世紀のパリで日本の浮世絵がウケたのは、そこに江戸っ子という都市生活者のリアルが活写されていることが、アカデミズムにがんじがらめにされて、現実社会とのつながりを失っていた彼らのアートの在り方にくさびを打ち込んだからであった。浮世絵はフランスでアートを社会にアンガージュさせる契機となった。それが最も重要なことのはずだった。
 いま、アートは社会にクサビをうちこんでいるだろうか。アンディ・ウォーホルのようにどっぷりコマーシャリズムにつかるというやり方もたしかにあった。しかし、その場合、コマーシャリズムが社会と乖離したときどうしようもなくなる。そういうとき、芸術が発生した限界芸術の領域まで戻ってアートと社会をつなぎ合わせることが可能ではないのかという提案は今でも力があり刺激的だと思う。
 

ぜんじろう、ピエール瀧、鴻上尚史、「自己検閲」と「炎上」について

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 ひさしぶりにぜんじろうの噂を聞いた。
 関西ローカルの『テレビのツボ』人気で、全国的にも売れそうになったものの、おなじく司会を務めた大桃美代子や出演者だった藤井隆がブレイクしたのと対照的に、急速に失速していってしまった。
 当時から、ちょっとルーズな面は、視聴者にも垣間見えていた。あまりにも遅刻するので、大桃美代子が「もう叱言をいうより、楽しくやることにした」とさじを投げたような発言をするのも聴いたことがあるし、本人も「そんなきちんとした生き方するなら芸人にならない」みたいな、つまり、調子に乗っていたので、これは、わりとよくある売れっ子のパターン、後の、はんにゃの金田がそうだけど、よしもとはわりと売れっ子を育てるのに長けていない。
 で、消えちゃったんだなと思って、気にもかけていなかったけれど、その後、海外に拠点を移して、日本の外で活躍しているらしい。しかも、2015年にはタイで開かれた世界お笑い大会で優勝して、そこから活躍の場が広がっているそうなのである。
 まあ、浮沈の激しい世界だから、それでどうなるかわからないが、ただ、まだ誰もやったことのない道を切り開いていく生き方は楽しいのではないかと思う。
 日本と海外のコメディーについて、上にリンクしているサイトのインタビュー記事を読んで、これはそうだなと思ったのは、タブーについての意識の違いだった。
 2011年に東日本大震災で東北一帯を津波が襲った時、海外のコメディアンが「日本はテクノロジーが進んでいるから、ビーチの方から家に来てくれるらしい」と言ったのが炎上して、そのコメディアンが謝罪に追い込まれたことがあったが、私見では、あれはいいギャグだった。
 なぜ、あれで謝罪しなきゃならなかったのか今でもわからない。たとえ、20000人が死んだ被害のさなかであっても、というより、そのさなかだからこそ、笑いは必要なんだし、コメディアンはそれが仕事なのである。
 津波の被害を「ビーチの方が家に来てくれる」というおとぼけに、あの時でさえ、いったいどのくらいの人が怒ったのだろうか。いずれにせよ、それに怒るのは、子供じみているってのがほんとのとこだろう。コメディアンが冗談を言うのになぜ怒らなければならない?。笑いは、むしろ、愛情なのである。この「むしろ」をはずして、もっと正確に言えば、笑いは笑いなのである。笑いはあった方がいい。すべるすべらないはあるものの、難しい時にあえて冗談を言っている人に怒るのは、それはやっぱり子供だと思う。私の知っている日本人はそんなことでは怒らない。
 ドン・キホーテのピアスっていうコラムを鴻上尚史が書いている。最近はまっているというツイッターピエール瀧についてツイートしたそうなのだ。
nikkan-spa.jp
 出演者の不祥事で、そのひとの過去作品全部が封印されるなんて風習は思考停止だと、書いたそうなのだが、鴻上尚史ツイッターにはまっている理由というのはそこからで、そのツイートの結果、5日間で閲覧が360万回、リツイートが約30000、「いいね」が60000、の中で、直接返信してきた275人のうち批判してきた人が約100人、「鴻上尚史」でエゴサーチした結果、この件に関して批判中傷しているツイートが約100人と、具体的に数字が分かる。
 この数字をどうとらえるべきなのかは、専門家でないのでわからないが、『ネット炎上の研究』の統計調査によると、炎上の参加者はネットユーザーの0.5%にすぎないということなので、それをあてはめると、360万の閲覧者に対して、18000人が批判すれば炎上ということになるわけだが、その数にはとうてい達しないように見える。

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

 炎上ですら0.5%なのに、それすらしていないこの意見への批判は、では、国民の何パーセントの意見だということになるのか?っていう、鴻上尚史の疑問はもっともだと思える。
 ところが、NHK、マスコミ、映画会社の対応は、多数意見側ではなく、ほとんど特殊ともいうべき意見に寄り添っている。これはいったい何なんだということになるが、これに似たようなことをつい最近どこかで読んだぞと記憶をたどってみると、江藤淳の『閉ざされた言語空間』だった。

占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫)

占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫)

 あの本では、報道の自由をもたらしたはずの占領軍が、隠然と、徹底した検閲を行っていて、そして、それに忖度する日本のマスコミが、自己検閲に陥ることで、かえって進歩的知識人としての特権意識を抱くようになる、ゆがんだ病理が描かれていたわけだが、今、日本のマスコミで行われている、法的にも、倫理的にも、何の根拠もない、「出演者の不祥事」→「作品封印」という「風習」は、1980年に江藤淳が書いていたことの正しさを確かに傍証していると見える。
 「不祥事を起こした出演者の過去作品は全部見せない」ことに何か根拠があるだろうか。それは、見せたり見せなかったりができる側に立つ連中の力の誇示にすぎず、法的にも倫理的にも何の根拠もないからこそ、それを決定する側の裁量の力は大きくなる。
 それをとりもなおさず「検閲」というんだが、そうした「検閲」を「倫理」と取り違えている、ごく少数意見とマスコミが同調せざるえないその異常さを、たぶん江藤淳は「閉ざされた言語空間」という言い方で表現したのかもしれない。1980年当時は分かりにくかったけれど、インターネットの普及を経て、マスコミの自己検閲の異常さが、だんだん一般にも認知され始めてきたというべきなのかもしれない。
 松本人志が、ピエール瀧の今回の事件について、「クスリでやった演技はドーピングだからアウト」というほぼ意味不明のコメントをしたらしいが、正直言って、わたくしは松本人志にワイドショーのコメンテーターなんてしてほしくないなと思っている。28年前の私が現在にタイムスリップしたら、イチローが今まで現役を続けていたことに驚くよりも、松本人志がワイドショーのコメンテーターをしていることに驚くかもしれない。ただ、阪神淡路大震災の1995年当時、いちばん笑わせてくれたのはダウンタウンだったことはまちがいない。だから、批判はしない。

TOKYO MOTORCYCLE SHOW 2019 その他

 BOSS.HOSSのクレージーなトライク、LS445 GANGSTA TRIKE。

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BOSS.HOSSのトライク

 V8エンジンだそうです。
 こういうバイクは、所ジョージみたいに、これに乗ってショッピングモールくらいなところまで出かけて、そこの駐車場に雑に停めて、カフェのテラスでコーヒーでも飲みながら、それを眺めて、それで帰ってくる、といったような楽しみ方をするんでしょう。茶人ですよね。私には訳が分からない。
 SAKUMA ENGINEERINGの一輪トレーラー。

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曲がれねえだ。そのわりに軽自動車の助手席ほども積載できねえだ。これを見ながらつくづく思うのは、どうしてわざわざ不便な乗り物にあえて乗るの?っていう問いは、どうせ死ぬのにどうして生きるの?っていう問いと同じなんだけど、死ぬの、生きるのって問いにはあえて答えるまでもないわけだから、その代わりには、こんな不便な乗り物に乗って、不便な旅にでも出てみるしかないわけだろう。無意味で無駄で孤独、なのは、最初から分かってたはず、だから、その答えの前に、問い直してみるしかない。ヤッパリねってことにしかならないが、すぐ答えるより、少し遠回りできたってことにはなるだろう。寅さんを引くまでもなく「それをいっちゃおしまいよ」は永遠の真理なのである。

 ところで、例のLambrettaのスクーターのCMにJean Shrimptonが出てるのを発見した。

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Jean Shrimpton with Lambretta

 56DESIGNのライディングシューズ

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56DESIGN

靴ひもがオフセットになっているのはシフトペダルに干渉しないように、ではあるが、もちろん、見た目の面白さもねらっている。

DUCATIのブースにあったサイドゴアブーツ

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DUCATIのサイドゴアブーツ

バイクブーツでサイドゴアは珍しい。だって、ゴムの部分がエンジンにすれる。

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バイク用デニム PROmo jeans DALLAS 12.5oz

 これは、PMJというところに展示してあったイタリア製のバイク用デニムだそうである。内側の構造を見せるために切ってあるのだろうけれど、このダメージド感がいいなと思った。

 ことしあたりの流れを見ていると、いよいよキャンギャルの存在は絶滅危惧種に指定されそう。観に行く側も確かに「もういいんじゃないの」って気持ちになっている。展示が洗練されてきたともいえるし、猥雑さがなくなっておとなしくなったともいえる。

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SPHERELIGHTのキャンギャル

 走りとスピードが、イコール、バイクのテーマであったころは、キャンギャルとバイクはその危険さにおいて同質だった。だけど、「それじゃないから」ってなったときに、バイクは茶道具みたいなものになったんだろうと思う。文琳の茶入れとか、卵手の茶碗とか、そういうものを見せ合うように、バイクを見せ合っている。そういえば、武将が茶さじを削りだしている姿は、キャブレターのニードルを削っている姿と似てる気がする。