『禁断 二・二六事件』と「海軍極秘文書」と『拝謁記』

禁断 二・二六事件

禁断 二・二六事件

 お盆前に、鬼頭春樹の『禁断 二・二六事件』を読み終わっていて、お盆が明けたらブログに感想を書こうと思っていた。
 ところが、びっくり。お盆休みの間にNHKが海軍の秘密資料を発掘した。
www3.nhk.or.jp

 陸軍の青年将校によるクーデターを、海軍は発端から結末まで、ひそかに監視して、分刻みの記録を残していた。
 こういう第一級の史料が発見されてしまうと、過去の研究はいろいろ修正を受けざるえない。
 鬼頭春樹の推測が外れていたので、いちばん大きいのは伏見宮博恭王の動きで、いま、WIKIをのぞいてみたら、Wikiは鬼頭春樹の仮説に依っているようだ。
 当時、海軍の軍令総長だった伏見宮博恭王は、二・二六事件当日の朝、昭和天皇に拝謁している。その拝謁に当たるに、加藤寛治、真崎甚三郎と事前になにやら協議していたようで、鬼頭春樹は、決起した青年将校たちは、伏見宮博恭王に根回ししていたのではないか仮説をたてていた。
 しかし、今回発見された海軍側の史料によると、伏見宮博恭王はむしろ昭和天皇に呼ばれて参内した。昭和天皇は、まず、陸軍のクーデターに海軍が同調する最悪の事態を想定して動いたのだった。
 九州の沖で演習していた艦隊をただちに東京湾に向かわせ、海軍の陸戦隊を臨戦態勢につかせた。そうしてクーデターに対する鎮圧の体制を整えたのだが、これは、万が一の場合には、海軍と陸軍が東京で内戦状態に入ることを意味している。
 そういう事態になったからこそ、陸軍本体がクーデターを抑えにかかったということはあるのかもしれない。というのは、陸軍に限らないかもしれないが、軍の体質はとにかく身内に甘かった。二・二六事件の場合でも、事態の鎮静化を命ずる天皇の奉勅命令が、小藤大佐のところで握りつぶされている。このことは、鬼頭春樹の本にもあるが、今回の海軍の史料にも、伝えるべき奉勅命令を、小藤大佐が伝えなかった様子が、はっきりと記されていた。
 国民や政府に向かっては統帥権の独立を振り回し、自分たちは奉勅命令を握りつぶすという、このことひとつ見ても、旧日本陸軍がどんな組織だったかすぐにわかる。
 軍の小隊を動かして、まるごしの年寄りを九人も殺して、それで、天皇親政をめざしたというのだが、その実は、軍事力による天皇脅迫にすぎないのは明らかで、それを昭和維新とか称して、義挙のつもりでいたのがおぞましい。
 しかし、二・二六事件の将校たちが、天皇に帷幄上奏するつもりだった提案が、戦後、GHQが行った農地解放より穏健な内容にすぎなかったというのは、ブラックジョークすぎて笑うに笑えない。
 その後の戦禍のすさまじさと、戦後の経済復興を見くらべれば、その程度に大胆な施策を行う決断は、つねに政治に求められるのだろうと思う。そうでなければ、ただ、現状に流されるだけになってしまう。
 この盆にはまた、初代宮内庁長官田島道治が、戦後、昭和天皇とのやりとりを記録した『拝謁記』も公表された。
www3.nhk.or.jp

 張作霖爆殺事件までさかのぼって、あのとき、厳罰に処すべきだったと後悔していたそうである。15年戦争と言われる戦争の全体が、陸軍による謀略だったと言っても、大して言い過ぎとも思えない。そういう陸軍の人間が、戦後、平気な顔をして議員になったりしているのを見ると、投票した人はいったい何を考えているのか、不思議を通り越して不気味。

 

『JKエレジー』と『そうして私たちはプールに金魚を、』を比べてしまった

 「おまえは大学行って金持ちになるんだろっ、このカネ持って逃げろ!」みたいなセリフがリアリティーを持っていいのか?っていう危機感。
 そういう貧富の差がドラマになりえたのって吉永小百合とか、そういう時代でもう終わったと思ってた。遅くとも、故・佐藤泰志の『そこのみにて光り輝く』が最後じゃなかったのかと。
 だから、言い換えれば、この映画は、「クラッシュビデオ」っていう、実在するかどうか知らないけど、倒錯しきって、性ビジネスかどうかわからないくらいの性ビジネスと、芸人になる夢やぶれて引きこもる兄っていう、今っぽい設えに換装したプロレタリア作品なのかもしれない。女工哀史であるかもしれない。
 が、しかし、松上元太っていう若い作家が、地方の若者の現実を、作品に落とし込んだらこうなったんです、ということなら、これは、やっぱりちょっと時代がまずいことになってる。そう感じさせる同時代感というか、エッジの効いた感覚がある。
 地方の女子高生を主人公にした映画では、長久允監督の『そうして私たちはプールに金魚を、』を観たばかり。あれは実話を基にしていた。長久允監督の装飾部分を取り払って、その実話を『JKエレジー』と並べると、この主人公たちが住んでいる世界の風景は、ほとんど同じなんだと思う。ただ、決定的に違うと思えるのは、『JKエレジー』の主人公は、「フツー」という価値観を捨てるにいたる。捨てざるえない。長久允監督の『そうして私たちはプールに金魚を、』と『ウィーアーリトルゾンビーズ』の2作品は、スタイルの新しさにもかかわらず、長久允監督の主人公たちは、「フツー」信仰を捨てられない。自分たちの「個性」より、「フツー」の方が強くて正しいと無意識に信じてしまっている。「フツー」は言い換えれば、「中流」「標準的」という価値観で、それは、遡れば、高度経済成長の時代だけでなく「天皇の赤子」とかいう人間観にまで遡ってしまう。
 戦後リベラルの弱さは、この「天皇の赤子」という、明らかな排外主義、国粋主義だが、日本国民にかぎり通用する平等の根拠に対する、その国粋主義から切り離された個人の人権の根拠を、キリスト教というバックボーンを持たないまま主張していることである。
 内村鑑三は、2つのJ「JAPAN」と「Jesus」を常に意識していた。その矛盾を意識していることが明治の強さだったのである。日本は、土着の神道国家神道ではない)に、外来の仏教や儒教をどうアジャストしていくかに苦労し続けてきた。ただ無批判に受け入れたわけではないことは、法然親鸞道元というひとたちをみればわかるはずである。
 これに対して、戦後リベラルは、米軍の権威以外には何の根拠もなく、人権を振りかざしただけだったのである。だから、欧米の権威が揺るげば簡単に崩れる。戦後リベラルは、カルチャーというよりカルカチュアにすぎなかった。
 どこかに「フツー」というゆるぎない価値観があり、自分たちの「個性」は、突然変異にすぎないという感覚がサブカルチャーの根っこの感覚なのだとしたら、当然ながらメインストリームのカルチャーが揺らいでいる時には、サブカルチャーは力を持てない。
 今はもう「フツー」というカルチャーに変更を強いる異議申し立てを、映画に限らず、すべての表現は持つべきだと思う。少なくとも『JKエレジー』は、それをせざるえない自覚の地点に立っていると思う。
jkelegy.com

『ニューヨーク公立図書館 エクス・リブリス Ex Libris: The New York Public Library』

 フレデリック・ワイズマン監督の『ジャクソンハイツへようこそ in Jackson Heights』を、去年観てそのスタイルに魅了された。ナレーションは一切入らない。

 この映画も、エルビス・コステロは、「Elvis Costello」と書いたパンフを手にしていたからわかったけど、パティ・スミスやリチャード・ドーソンなんかは、後からウエブで見て、「あの人そうだったの?」くらいの感じ。

 たとえば、同じドキュメンタリーでも、小林正樹監督の『東京裁判』は、緻密に書き上げられた佐藤慶のナレーションが、全編に入る。

 映画『東京裁判』の公正さを非難する人はいないだろうが、それでも、ウィリアム・ウェッブ裁判長とジョゼフ・キーナン首席判事の、東條英機の証言をめぐる駆け引きが、映像で確認できるかといえば、端々に感じられはするものの、やはり、ナレーションで補わざるえなかった。

 小林正樹監督自身がカメラを回した訳ではないから、単純な比較はできないが、もし、フレデリック・ワイズマン監督が東京裁判を撮っていたらどんなだったろうと妄想しないでもなかった。フレデリック・ワイズマンなら、誰のどんな発言を切り取っただろう。

 そう考えると、日本人の言説に対する意識の低さが痛感される。石原莞爾に「意見も思想もない」と評された東條英機でさえ、今の日本の政治家に比べれば、はるかに言葉に敏感に思える。東京裁判の結果、処刑された軍人のすべてが陸軍だった。処刑されたひとり、板垣征四郎が「お前ほど頭の悪いものはいないのではないか」と昭和天皇に面罵されたことは書いたが、旧日本陸軍は言葉を軽んじていた。天皇や政府が不拡大の方針を伝えても、実力行使で、既成事実を積み重ねていった。そこに言葉はなかった。

 この前の参院選山本太郎が99万票の最多得票をしたのも言葉の力だったと思う。SNSで発信された演説の力。思い返せば、小泉純一郎郵政選挙で圧勝したのも、解散を決意した演説の力だった。政治姿勢としてはおそらく真逆のこの2人に向けられる批判は、しかし、なぜか「ポピュリズム」と共通している。

 この場合、語弊を恐れる必要もなく、ポピュリズムが民主主義なのである。しかし、民主主義は制度ではないので、民主主義をどのような形式に反映してゆくかに、民度がかかっているのだと思う。ワイマール憲法のドイツで、民主的に行われた選挙で、しかも、多数が支持したわけでもないナチストが国政を牛耳ってしまったのはなぜかというなら、ヒトラーに権力が集中してしまったからだ。

 アメリカは、政治制度としては共和制なので、大統領、FRB議長、最高裁判事、などなど、それぞれに独立している。

 そして、それぞれに独立した権力が衝突した場合のために、民意を問う選挙というシステムがある。それなのに、選挙結果について「ポピュリズム」などと批判して民意を軽んずることが民主主義だろうか?。たとえば、「憲法改定反対」という選挙結果が出たとしてみよう、その時の為政者が「こんな選挙結果はポピュリズムにすぎない」と言って、憲法を変えるなんてことが許されるかどうか考えてみればわかる。

 しかし、郵政選挙の時に、「リベラル」を名乗る人たちがとった態度がまさにそれだったのである。あの時、「リベラル」という言葉は大多数の国民にとって「官僚主義」の偽装にすぎなくなった。「戦後リベラル」は死んだと思う。彼らは、戦前から自由主義を標榜してきた人たちを「オールドリベラリスト」と揶揄して否定したのだが、今は「戦後リベラル」がどれほど蔑まれているか。

 東京裁判で、文官でただひとり極刑に処せられた広田弘毅が、日本の軍国主義化について、最も問題があるとされた点は、彼が「軍部大臣の現役武官制度」を復活させたことだった。組閣の権限を軍に明け渡したに等しい責任が重く問われた。広田弘毅が沈黙を貫いた為でもあるが、ただ、権限を集中させることについての連合国の厳罰は、たしかにそれが英米と日独を分けた最大の差異だったとも思える。

 この映画で、アメリカにも教科書問題があることを知ったが、しかし、アメリカでは、取りも直さず、図書館が教科書に対するアンチテーゼになることができる。学校が教育のすべてではないと、人々が思っているかぎり、教科書問題は限定的でしかない。

 また、『ジャクソンハイツへようこそ』でも、取り上げられていたが、トランプ大統領が移民排斥の態度をとっても、ニューヨーク市が独自にIDを発行することができる。あのIDの発行にもニューヨーク公立図書館が協力している。

 なお、『東京裁判』の4時間37分ではないが、『ニューヨーク公立図書館 エクス・リブリス』も3時間25分あるので途中休憩が入ります。また、英語を勉強してる人にも、生きてる英語が聞けるよい機会かも。

 それから、

hatenanews.com

 

はてなニュースのこの対談が素晴らしかった。一読の価値あります。


『東京裁判』4Kデジタルリマスター版

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あつぎのえいがかんkiki

 小林正樹監督は、もともと1970年に、東京裁判を題材にした劇映画を企画していて、脚本も書き上げていたそうなんだけれど、キャスティングと予算の問題で実現しなかった。
 その小林正樹がこのドキュメンタリーを撮ることになったきっかけは、東京裁判から25年を経た1973年、公文書公開法の規定だと思うが、米国立公文書館で、東京裁判の映像記録が公開されはじめた。それを機に、講談社の70周年の記念事業で、その映像をもとに映画を作ろうという話が小林正樹監督に回って来た。
 1983年、でき上がった映画は4時間37分!。しかし、もとは50万フィートを超えるフイルム、1977年に、井上勝太郎プロデューサーがアメリカから持ち帰ったフイルムは582巻だった(一切経かよ?!)。そこからさらに絞り込んだ映像が130時間だったという。5年の歳月。そんじょそこらのお散歩映画とわけが違う。実際、ぜんぜん長く感じない。
 ノイズの多い音声をヒアリングで書き起こし、それを翻訳し、全10巻、10000ページに及ぶ、日本語版裁判記録と照合した。その成果として、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人の
「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。・・・」
以下の発言が、「以下、同時通訳なし」とのみ記載され、記録に残っていなかったことがわかった。歴史資料としては、この映画のみで確認できるということになるのだろう。
 もともと劇映画のために、監督自身が準備していた映画は、広田弘毅を主人公に据えたものだったそうだ。文官としてただ一人絞首刑に処せられた人である。監督自身の中ですでに東京裁判観があったところに、誰も観たことのない実際の東京裁判の映像と対峙することになったわけだから、それじたいがもうドラマで、これで出来上がったものが面白くないわけがない。
 そして、今回のは4Kデジタルリマスター版で、公開当時は、所詮、1940年代の軍の記録映像だったものが、最新の技術でよみがえっているのも大きい。広田弘毅もそうだけれど、東郷茂徳重光葵木戸幸一といった、文官の無念の表情が、今年は、『日本のいちばん長い日』の新旧の映画と原作、それに、福田和也の『昭和天皇』、半藤一利の『ノモンハンの夏』と読んだせいもあって、何とも印象深く感じられた。
 半藤一利の『ノモンハンの夏』で、「お前ぐらい頭の悪いものはいなのではないか」と昭和天皇に面罵された、板垣征四郎が絞首刑に処せられたについては、ざまあみろと思うのだけれど、ただ、東京裁判で裁かれた被告人たちのほとんどは、BC級戦犯のように「戦争犯罪」で裁かれたわけではなかった。そうではなく、第二次大戦が人類史上未曽有の災厄をもたらしたために、「平和に対する罪」「人道に対する罪」を、問うべきではないかと、第二次大戦後に、事後的に、判断されたわけだった。
 だとしたら、戦勝国が敗戦国をさばくことが、「人道に対する罪」と「平和に対する罪」について、正義を回復することに資するかといえば、被告の弁護人になったベン・ブルース・ブレイクニーが陳述したように、高邁な理想を掲げながら、その実態は、戦勝国による敗戦国に対する報復にしかならない危険性を孕んでいた。
 正当性の裏付けを先送りしながら、審議が続いていく、法廷劇としてはかなりユニークにはちがいないが、だからこそ、スリリングだといえるかもしれない。オーストラリアのウィリアム・ウェッブ裁判長は、なんとしても昭和天皇を被告人にしたかったようだ。それに対して、ジョゼフ・キーナン首席検察官がそうさせまいとする、その駆け引きはもはや定説になっているが、もし天皇が裁かれていたら東京裁判は、どのようなものになったろうかと考えてみると、もし、天皇が被告席に立っていれば、多くの日本人は、この裁判を戦勝国による報復にすぎないと多寡をくくっていたかもしれない。この「たられば」は、まったく意味をなさないが、それとは逆に、昭和天皇がもし被告として何かの証言を残していれば、その後の歴史は変わっていたのかもしれない。
 いずれにせよ、皇国史観から東京裁判史観へとあっさりと乗り換えた一般の日本人は、昭和天皇を戦争の文脈から除外し、そして、また自分たち自身をも免責した。
 この映画が成立した1983年には、共産党の無謬性はとっくに神話になっていただろうが、東京裁判のころの共産党大会の演説は、今なら、ほぼヒステリックと言っていいと思う。おそらくは、1983年当時もそう見えていたはずだと思うのだが、すくなくとも、東京裁判のリアルタイムでは、光り輝いていたかもしれない。と思うと、そこに拍手喝采している人たちは、ほんのつい最近まで、「日本ヨイクニエライ国」と言ってた人たちなはずなのである。

 東京裁判は、1928年から1945までに及ぶ長い期間の戦争遂行における、様々な段階の責任者を訴追していく形で行われた。そのため、2年6か月の期間をかけても、事件の深層にまで肉薄したとは言えなかった。たとえば、石原莞爾のように、満州事変の首謀者といえる人物が被告からもれている。にもかかわらず、東京裁判で、一般の日本人は、鶴見俊輔15年戦争と呼んだ戦争の実相の一端を初めて知ることになったのだが、にもかかわらず、東京裁判以上の責任を追及しようとはしなかった。
 丸山眞男のいう「既成事実への屈伏と権限への逃避」は、東京裁判の被告たちを評した言葉でもあるが、東京裁判史観をあっさりと受け入れた、日本の大衆の精神的な態度そのものをもまた正確に表現していたのだと思った。
 なお、映画音楽を担当したのは、武満徹で、この4時間37分の映画に、全体でわずか9分、7曲の曲しか書かなかった。
 蛇足ながら、何かクッションみたいなものは用意しておいた方がいいかも。サーマレストのザブトンはオススメ。ウレタンフォームがハニカムパターンになっていて、軽量、かつ、空気が抜きやすい。丸めると、350mlのアルミ缶より小さい。私は、腰を痛めてるので、映画見る時は常携してる。途中に10分休憩はあります。

 

夏らしい展覧会をいくつか

 あんまり大きく話題にはなっていないけど、日本の夏らしい気分になれる展覧会をいくつか紹介したい。 
 ひとつめは、太田記念美術館と戸栗美術館が共同で企画している「青のある暮らし」。
 今気が付いたけど、太田記念美術館の方はもう期間がおわってる。戸栗美術館の方は九月22日までやってますね。
 戸栗美術館がコレクションを誇る蛸唐草は、この季節むき。目に涼やかで、波の音が聞こえそう。
 戸栗美術館も、太田記念美術館とおなじく、図録に熱心ではないみたいで、この美術館の所蔵品の中でも、ひときわ目を引く≪横綱土俵入り文大皿≫の画像が、図録にも載ってないし、ポストカードにもなっていない。幕末の作品らしく、そんなに古いとまで言えないし、派手すぎてシロウト好みにすぎるのかもしれない。でも、一見の価値ありだと思います。

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戸栗美術館

 戸栗美術館で染付の実物を見た後、太田記念美術館の浮世絵を見ると、片隅に描かれている食器や植木鉢なんかもリアルに見えてくる。

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太田記念美術館

 といわれても、会期がすぎてちゃしょうがないので、そのかわりに横浜そごう美術館で「令和元年記念 北斎展」とめいうって葛飾北斎の「富嶽三十六景」と「富嶽百景」の全148点を全品リクリエイトしたたユニークな展覧会はいかがでしょう。

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横浜そごう美術館

 そごう美術館と福岡伸一が組んでリクリエイトしたのは、フェルメールに続いて2度目かな。フェルメール作品全37点リクリエイトはインパクトがあった。でもそれは、オリジナルが1点ずつしかないからなんで、北斎の方は、もとが版画なんで、もともとリクリエイトっちゃリクリエイトなんだし、刷りの違うステートが何点もありますしね。
 でも、≪富嶽百景≫の小さな画面が大きく引き伸ばされて展示されていたのは面白かった。

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富嶽百景 霧中の不二 葛飾北斎
 富嶽三十六景については、
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富嶽三十六景 紅嫌い
こんな風に「紅ぎらい」といって、青だけか、寒色だけで刷られているバージョンがけっこうあって、おそらく、いわゆる「赤富士」≪凱風快晴≫以外はすべて「紅嫌い」でいいんじゃないかと夢想したりもする。
 しかし、戸栗美術館のある渋谷から、横浜に来る前に、ちょっと井の頭線駒場東大前に寄り道して日本民藝館の「食の器」をおすすめしたい。
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日本民藝館

 日本民藝館もまあ図録を作らない。今回の食の器は、器もそうだけど、青のある暮らしということでいえば、庄内被衣(かつぎ)といわれる藍染の晴れ着の藍色の豊かさに圧倒された。
 ちなみに、被衣というのは、私の理解では、襟のところがフードになってる着物のこと。これは、東京国立博物館で観たことがある。だけど、被衣として別にあつらえなくても、頭から被るように使った着物は被衣と呼んだようで「よそいきの晴れ着」くらいの意味で使っている場合もあるのかもしれない。
 それと、菓子型といって、たぶん「落雁」を作るのに使った木製の型がいっぱい展示されていて、陰刻として面白いと思った。金型なら簡単に思えるのだけれど、そうじゃなくて「木」だから。
 もう一つ目玉は浅川巧が著書で紹介した、朝鮮の膳の数々。ほんとに、美術ファンの人たちは朝鮮にいいイメージしかなかったはずなんだが、どうしちゃったんでしょうね、最近の韓国は。

『よこがお』を『淵に立つ』とくらべてみたくなる

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よこがお

 『淵に立つ』の深田晃司監督が、また筒井真理子で映画を撮った。『よこがお』は、また筒井真理子だから、どうしても『淵に立つ』とくらべてしまう。
 というか、『よこがお』をみながらも『淵に立つ』を思い出してしまうのですよ。
 『淵に立つ』は、最後まで、核になる事件について、実のところどうだったかまったくわからない。
 だけど、もしかしたら、自分のせいなんじゃないかっていう罪悪感、それは、旦那(古館寛治)に対してもそうだし、娘に対してもそうなんだけど、しかし、ホントは何が起こったのか全くわからないし、わかりようもないので、実は、まったく自分のせいではないのかもしれない、そういう、終わりの見えない年月をすごしている女を演じた筒井真理子がすごくよかったのです。
 太宰治の『人間失格』の主人公が、ドストエフスキーの『罪と罰』について、ドストエフスキーは「罪」と「罰」を対義語として扱っていたのではないか?、と思いつく劇的なシーンがありますが、まさに、あんな感じに「罪」と「罰」がうまくかみ合っていない感じ。
 それは、筒井真理子だけでなく、実は、古館寛治、浅野忠信、そして、娘さんについてもそうだと言えるのかもしれないけれど、古館寛治の演じる旦那の方は、自分の中でかってに罪と罰の帳尻を合わせてしまっているのに対して、筒井真理子にはそれもできない。
 『淵に立つ』みたいな名作を撮った監督の、その次回作だから、新海誠監督の『天気の子』とおなじく、これは当然観るのです。それで、深田晃司「節」とでもいいたい映画が堪能出来て、それはそれでよかったのですが、『よこがお』のあらさがしをするならば、筒井真理子の主人公が、市川実日子の演じる「トウコ」の同性愛傾向に、最後まで全く気が付かないのは、ウエルメイドな感じがしました。
 もう一点は、今回の主人公の葛藤は、前作と違って内面ではなく、マスコミが作り出した状況にすぎないという点が大きく違って、マスコミが振り回す正義が、当事者の視点に立つと、いかに横暴かがが、深田晃司監督の繊細なタッチで浮き上がる。
 でも、それは、もう一歩踏み込むと、マスコミのご都合主義は、主人公が「トウコ」の同性愛に全く気が付かない鈍感さと対になっているともいえる。
 だから、今回の『よこがお』のストーリーは市川実日子のサイドにあって、それがずっと隠されたままだというところが深田晃司監督らしいなと思います。市川実日子は、筒井真理子を傷つけた側なんですけど、筒井真理子の「ささやかな復讐」で、実は、筒井真理子の意図しないかたちで、傷つけられている。
 市川実日子の「トウコ」がこの映画を見ごたえのあるものにしていると思います。
 観終わった後に、しばらく考えさせられる映画。そういう方が私にとっては面白い。
 しかし、あんなに気が付かないってあるかね?。たいがい、「こいつホモじゃね?」とか「レズじゃね?」とか「ヅラじゃね?」とか、そういうの大好物のはずなんだけど、好意的にみれば「善良すぎる」のがリアルに感じさせないのだけれども、逆に言えば「復讐」がささやかすぎるのも「善良」で一貫しているのがおもしろい。池松壮亮にばれてるし.結局。
 それからもう一点、『淵に立つ』と『よこがお』のちがいは、子役の撮り方。『淵に立つ』の子役のピアノを弾くバックショットは、いやらしいくらいでしたけど。
 

吉本おわったな

山里亮太によると、吉本興業の岡本昭彦社長は、七月22日の記者会見の間、女子高生と中身が入れ代わっていたそうだ。
 あながちないこともないなと思わせるぐだぐだぶりだったのだが、にもかかわらず、辞任せずに居座るつもりなのに驚いている。
 逆に言えば、ことここにおよんで居座るつもりでいる人物だからこそ、ここまでことがこじれるのだろう。
 この問題については、先月末に書いたし、それ以上に付け加えることはない。最初の、カラテカ入江の解雇から、社長の判断ミスなのである。まあ、今回の記者会見でバカさ加減がわかったから、この人物ならやらかしてしまったのもわかる。
 そもそもフライデーの記事を無視しておけばそれで済んだ話だった。ちゃんとした経営者なら週刊誌の記事に右往左往しないのである。
 たまたま宴会に呼ばれていったら、あとで、そいつらが詐欺師集団とわかりました、が、何の問題があるの?。
 カネをもらった、もらわないは何の関係もない。そもそも大崎会長も、直の営業は黙認してきたとインタビューで語っている。
 何か問題があるとしたら、詐欺集団から写真を買い取ったフライデーに問題がある。
 だから、フライデーなんてカストリ雑誌の記事なんて無視しておけばいいものを、問答無用で解雇した岡本昭彦社長がバカ。
 この社長はこのまま放置すればまたなんかやらかす。この首を切れないようなら、切れない大崎洋も焼きが回ったということだろう。
 カラテカ入江には、ぜひ「不当解雇」で訴訟を起こしてもらいたい。そうでなければ、また被害者が出る。
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