『よこがお』を『淵に立つ』とくらべてみたくなる

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よこがお

 『淵に立つ』の深田晃司監督が、また筒井真理子で映画を撮った。『よこがお』は、また筒井真理子だから、どうしても『淵に立つ』とくらべてしまう。
 というか、『よこがお』をみながらも『淵に立つ』を思い出してしまうのですよ。
 『淵に立つ』は、最後まで、核になる事件について、実のところどうだったかまったくわからない。
 だけど、もしかしたら、自分のせいなんじゃないかっていう罪悪感、それは、旦那(古館寛治)に対してもそうだし、娘に対してもそうなんだけど、しかし、ホントは何が起こったのか全くわからないし、わかりようもないので、実は、まったく自分のせいではないのかもしれない、そういう、終わりの見えない年月をすごしている女を演じた筒井真理子がすごくよかったのです。
 太宰治の『人間失格』の主人公が、ドストエフスキーの『罪と罰』について、ドストエフスキーは「罪」と「罰」を対義語として扱っていたのではないか?、と思いつく劇的なシーンがありますが、まさに、あんな感じに「罪」と「罰」がうまくかみ合っていない感じ。
 それは、筒井真理子だけでなく、実は、古館寛治、浅野忠信、そして、娘さんについてもそうだと言えるのかもしれないけれど、古館寛治の演じる旦那の方は、自分の中でかってに罪と罰の帳尻を合わせてしまっているのに対して、筒井真理子にはそれもできない。
 『淵に立つ』みたいな名作を撮った監督の、その次回作だから、新海誠監督の『天気の子』とおなじく、これは当然観るのです。それで、深田晃司「節」とでもいいたい映画が堪能出来て、それはそれでよかったのですが、『よこがお』のあらさがしをするならば、筒井真理子の主人公が、市川実日子の演じる「トウコ」の同性愛傾向に、最後まで全く気が付かないのは、ウエルメイドな感じがしました。
 もう一点は、今回の主人公の葛藤は、前作と違って内面ではなく、マスコミが作り出した状況にすぎないという点が大きく違って、マスコミが振り回す正義が、当事者の視点に立つと、いかに横暴かがが、深田晃司監督の繊細なタッチで浮き上がる。
 でも、それは、もう一歩踏み込むと、マスコミのご都合主義は、主人公が「トウコ」の同性愛に全く気が付かない鈍感さと対になっているともいえる。
 だから、今回の『よこがお』のストーリーは市川実日子のサイドにあって、それがずっと隠されたままだというところが深田晃司監督らしいなと思います。市川実日子は、筒井真理子を傷つけた側なんですけど、筒井真理子の「ささやかな復讐」で、実は、筒井真理子の意図しないかたちで、傷つけられている。
 市川実日子の「トウコ」がこの映画を見ごたえのあるものにしていると思います。
 観終わった後に、しばらく考えさせられる映画。そういう方が私にとっては面白い。
 しかし、あんなに気が付かないってあるかね?。たいがい、「こいつホモじゃね?」とか「レズじゃね?」とか「ヅラじゃね?」とか、そういうの大好物のはずなんだけど、好意的にみれば「善良すぎる」のがリアルに感じさせないのだけれども、逆に言えば「復讐」がささやかすぎるのも「善良」で一貫しているのがおもしろい。池松壮亮にばれてるし.結局。
 それからもう一点、『淵に立つ』と『よこがお』のちがいは、子役の撮り方。『淵に立つ』の子役のピアノを弾くバックショットは、いやらしいくらいでしたけど。