『天気の子』にうちひしがれる

 映画はよく観る方だけど、アニメはあまり観ない。
 アニメは全編これ絵なわけだから、全く個人的な好悪にすぎないが、ダメだこりゃっていう絵を2時間見せられるのは苦痛。
 そういう人間にとって、宮崎駿引退と同時に立ち現れた『君の名は。』は、イチロー引退と引き換えに出現した大谷翔平のように見えた。
 『天気の子』は、その次回作なわけだから、二年目の大谷翔平のように、「まあ、大目に見ようではないか」くらいの、根拠のない上から目線で臨んだのであるが、まったく、こてんぱんに打ちひしがれた。
 高い次元で、娯楽性と作家性が両立している。本来、すべての商業芸術でそうあるべきなんだが、往々にして、娯楽性と作家性の、どちらかがどちらかのエクスキューズになっていることがあり、そうなると、悲惨なことになる。
 『君の名は。』が、世界的なメガヒットになったわけだから、もし、新海誠が凡庸な作家なら、そういうことも起こり得たわけじゃないですか?。しかし、ネットで見かけたインタビューでは「『君の名は。』で怒った人を、もっと怒らせてやろうと思った」と語っていて、「じゃ、大丈夫なんだわ」と納得せざるえなかった。
 かなり特殊な世界観なんだが、それを絵の説得力だけで成立させる、力わざめいた画力もあいかわらず見事だと思った。晴れから雨へ、雨から晴れへと移り変わる天気の描写を見るだけでも観に行く価値がある。
 それでも、というか、しかも、というか、これがかなり堂々と正統的な少年と少女の冒険譚であることに注目するべきだと思う。決して、サブカルチャーを志向していない。だからこそ、とくにアニメに興味のない観客にまで届くのだと思う。

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メスキータ 於 TOKYO ステーションギャラリー

 これなんか大友克洋かと思いません?。

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≪ヤープ・イェスルン・デ・メスキータの肖像≫サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ

 サミュエル・イェスルン・デ・メスキータが1922年に描いたご子息の肖像画で、しかも、木版だそうです。まるで、スクリーントーンを貼ったみたいですが。

 メスキータは、1902年から1924年まで、オランダのハールレムにあった応用美術学校で版画を教えていました。そのときの生徒のひとりがM.C.エッシャーでした。
 1946年、アムステルダム市立美術館で、戦後初めて開催されたメスキータ作品展の図録に、エッシャーが書いた文章が、今回の図録にも翻訳されて転載されています。 

 メスキータは、76歳のとき、1944年1月31日から2月1日にかけての夜中、彼の妻や息子と共にリネウスカーデの住まいからドイツ軍によって連れ去られた。三人とも帰らぬ人となり、死への苦難の道のりについては、ほとんどなにもわかっていない。

 エッシャーはその2月半ばに、メスキータの家が荒らされているのに気づき、残されていた作品を200点ほどを持ち帰りましたが、すぐに引き返すと、すでに何者かによって施錠されていて、入ることができなかったそうです。
 じつは、エッシャー以外にもメスキータが連行されたことに気づいたひとがいて、そのひとたちもまたメスキータの作品を保管しようとしていたということだったようです。
 図録の略歴には、画家本人と奥さんのエリザベトは2月11日ごろ、アウシュヴィッツで、息子さんのヤープ{上の肖像画の人)は、3月30日にテレジエンシュタットで死亡したとあります。

 余談ですけど、今回のメスキータ展の図録はすごく良い出来だと思います。変わった版型ですが、手に持った感じがすごくしっくりくる。こちらから購入できるみたいなので、展覧会には行けないけど興味あるというかたはどうぞ。

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≪うつむく女≫メスキータ

 エッシャーについては、以前の展覧会で、晩年に奥さんに離婚され、芸術家のための養老院で、誰にも看取られずに死んだって聞いて、ちょっと寂しい思いをしていたが、若いころには、そんな風に慕うメンターがいたと知って、ちょっとだけ救われる気がする。

梅雨はVividな服を着る

 七夕なのにえらく寒いのは「令和」っていう元号のせいなんじゃないか、とかいってたのに、いつのまにか、いつもどおりの蒸し暑い日々。
 で、たぶん、みなさん夏服に着替えてると思うんだけど、ちょっとした豆知識、梅雨空に夏服は映えない。
 特に、白いシャツなんか、強い日差しがあってこそ映えるので、どんよりした曇り空の下、湿り気を帯びた背景、明度も彩度も低くなりがちな中ではくすんで灰色に見える。
 なので、梅雨どきは、ふだんあまり着ないvividな色を着るとよいのだ。
 vividな色は、夏になると暑苦しい。かといって、春はパステルカラーを選びがちだから、気に入っていても、案外に着る機会がない。
 どんよりした梅雨こそ、ふだんはパスしがちなvividな色を着る。
 晴れた日だと目がチカチカするようなカラフルな服の方が、ジメジメした梅雨空のもとでは、白一色よりかえって清潔に見える。
 気に入って買ったものの、着る機会を逃してるようなド派手な色の服は、梅雨どきに着てみましょう。ま、自己責任で。

ジュリアン・オピー展 at オペラシティアートギャラリー

 オペラシティアートギャラリーでジュリアン・オピーを観てきた。
 展覧会で撮った写真を見ていて、この写真と

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オペラシティアートギャラリー

この絵が似て見えることに気が付いた。

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walking in Boston

 っていうことは、19世紀のパリの女たちがみんなルノワールの女に見えたように、今のボストンを歩く人たちが、みんなジュリアン・オピーの人たちに見えている可能性がある。

 写真のいちばん奥に見えているのは

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Cardigan

この作品。昔、夜店で売ってた「型抜き」を思い出させる。

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Telephone

 この≪Telephone≫は、あまりにもセクシーなので何枚も写真を撮ったが、右肩あたりの色っぽさがちゃんと撮れたという気がしない。


 しかし、これがセクシーに見えるのは、いったんは奇妙なことである。この女性が「線」で描かれているのか、「面」なのか、それとも「立体」なのかがよくわからない。
 ちなみに、この女性を横から見ると

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Crows

こうなってしまうが、しかし、真正面から見るのがいちばんいいというわけでもない。
 
 手前の5羽のカラスたちも、ミニマルにそぎおとされた表現の動きのリズムと、黒い立方体の空間配置がここちよい。

 この展覧会は、作品の配置そのものがここちよい。

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オペラシティアートギャラリー Julian Opie展

 この≪walking in London≫なんて

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≪walking in London≫

私たちは今まさにこのように生きているのかもしれない。孤独が常態化しすぎて無感覚になっている。
 渋谷のスクランブル交差点は、なぜか世界的な観光スポットになっているけれど、あそこで人が見ているものはこういうことなのかもしれない。その意味では、サントリー美術館でやっている「遊びの系譜」の邸内遊楽図とか洛中洛外図の群像表現にルーツをみるべきかもしれない。ジュリアン・オピーは4面の立方体に設えているけれど、これを展開して屏風に仕立てれば、現代版の邸内遊楽図になりうるのかも。

 ≪Towers1≫は、リチャード・エステスへのオマージュなのかなと思った。

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≪Towers 1≫

 ≪Valley≫の鳥には、ゴッホの絶筆を思い出した。

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≪Valley≫
 
 ただ、この二つの作品は、アルミニウムに自動車用塗料が用いられている。ふだん町中で見かけて「いい色だな」と思うのは、車の色と服の色ぐらいで、都会を背景にすると自然の色は色あせて見える、か、受け手側の感性が反応しなくなっている。

 前に、アンディ・ウォーホルがペイントしたBMWのクルマを見たことがある。

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 アンディ・ウォーホルは、絵はポップアートなのに、クルマは絵なんだ、とおかしかったんだが、このジュリアン・オピーはその逆をいっている。

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≪River 3≫

 今回、図録は買わなかったけれど、Tシャツは、いままで見てきた展覧会すべてのなかで、一番カッコいいと思った。

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オペラシティアートギャラリーのショップ

『Girl/ガール』観ましたです

 ちょっと話題になっているかもしれない『Girl/ガール』というベルギーの映画。
 ノラ・モンセクールという、実在のトランスジェンダーバレリーナをモデルにしている。
 主人公のララを演じているビクトール・ポスターは、ロイヤル・バレエ・スクールのトップダンサーだが、彼自身は、シスジェンダー(という言葉自体今初めて知ったんだけど、「生まれた時の性と、自認している性が一致している人のこと」だそう)なので、ふだんはトゥーシューズを履かないわけである。
 だから、こんかいのトゥーシューズを履いてのダンスは、物語とリンクして鬼気迫るものがあった。
 バレエが女性の肉体に加えるトゥシューズっていう制約と、男性の二次性徴を抑えて人為的に女性的二次性徴を起こそうとするホルモン治療が、主人公の肉体の中で同時進行する。
 バレエのためには骨を強くしなければならないのに、ホルモン治療はむしろ骨を細くする、その矛盾は、本来、この世のものならぬ妖精や精霊を人間が表現しようとするバレエの絶望的な矛盾と重なり合う。トランスジェンダーの主人公が自分の肉体を追い込んでいく感じが、バレエをテーマに選んだことですごく説得力のある表現になっていた。
 ルーカス・ドン監督によると、ダンスシーンは、カメラマンの動きも同時に振り付けて臨んだそうだ。ダンスの映画は多いけれど、コレオグラフィの段階からカメラを参加させてるのは新しいんじゃないかと思った。映画的ダンスの表現として発明なのかなぁ。すごくよかった。
 トランスジェンダーの抱く、自分の肉体に対する違和感、子供の時から自分は女だと思ってたのに、成長するにつれて、だんだんカラダだけが男になっていくのは、想像してみると、たしかにわかる気がするが、しかし、深く考えてみると、実際のところはまったくわからない。
 というのは、自分は、おとこの体で生まれてきて、自分を男性だと思って生きてきて、そのまま死ぬのだと思うが、それは、男の体で生まれてきたからだと思ってたのだ。男の体に生まれてきた、から、自分をお男だと思っているのだと思ってきたのだが、トランスジェンダーの存在は、それはそうじゃないんだと教えてくれるわけで、自分の場合は、たまたま運よく男の脳に男の体のセットで生まれてきたにすぎないということになる。
 たぶん、トランスジェンダーという人たちは昔からいたんだろう。性転換の技術がなかった昔は、女の脳に男の体、あるいは、男の脳に女の体っていう状況をそのまま受け入れるしかなかったわけで、それはそれでよかったんじゃないだろうか。
 いまは、なまじ、性転換の技術が発達したために、脳の性別にカラダをあわせようとするが、しかし、それは、体の性別に脳の性別を合わせようとする矯正施設と、実のところどう違うんだろうかという気もする。
 この映画の中でも、カウンセラーが主人公のララに「君は今のままでも女の子だ」という言葉を、ララは受け入れようとしない。
 でも、それは、女の脳に男の体というトランスジェンダーの存在を否定しているということでもある。女でも、男でもない、トランスジェンダーとしての自己を受け入れられない、自己否定であり、ララの周囲の人たちが、トランスジェンダーである彼女のありかたを受け入れていることと鋭く矛盾している。
 女の子たちとのくだけた集まりがあって、一人の女の子に「見せてよ」と言われる。ララはいやがる。「でも、いつもシャワー室で、あなたは私たちのを見てるでしょ。じゃあ、あなたのも見せて」と言われると、ララはその論理に抵抗できない。
 それは、圧倒的多数派が圧倒的少数派を受け入れているという意識であるにはちがいない。いやがることをやらせるという意味ではハラスメントには違いないけど、そこには、好奇心があるだけで悪意はない。少数派が多数派から好奇の目で見られることは、否定的な感情でとらえられるとは限らない。たとえば、ひとりだけおっぱいが大きいとか、髪が黒いとか、目が青いとか、ハーフだとか。 
 すべてのコンプレックスは両義的なものである。問題は、ララの側にあるので、女の子の側にはない。だから、つらいのだが、しかし、そのつらさはひとえにララの内面の問題なのだ。
 それから、この映画には、ララの母親が出てこない。その一方で、ちいさな弟がいる。ララ自身が家族の中で母親役でもある。この点が、この映画のプロットをシンプルに力強くしている。ようするに、父と娘の物語だからこそ、ララが女に見えるので、ここにララの母親が登場すれば、そこに、母と息子の物語、かすくなくとも、母と娘の物語が絡んでくる。
 監督インタビューでは

この映画は、父親がララを受け入れている時点から始まります。そうすることによって、ララの内的格闘に焦点を絞ることができると思いました。母親が不在なのは、ララが3人家族のなかで女性の位置を占めているほうが、ドラマ的に面白くなるのではと考えたからです。また、父と子の関係に集中できるとも思いました。もし母親がいれば、父と子、父と母、母と子という3つの関係を扱わねばなりません。

と説明している。
www.gqjapan.jp

 しかし、心理の深層では、ここには母性の否定があるといえるかもしれない。以前、村上龍柄谷行人の対談で、ピアッシングについて、孔子の「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」という価値観への挑戦なんだということを話していた。つまり、自己の存在を、親子の連続性に限定する価値観に対する、ピアッシングは挑戦なのである。
 そんな生命の連続性を母性が担っているとしたら、この映画の家庭が、父子家庭でなく母子家庭であったとしても、そこに母性は存在しえなかったはずだ。その意味では、あえて母子家庭であっても面白かったのかもしれない。
 ただ、もし母子家庭であったら結末は変わっていたかもしれない。父と娘の物語と書いたが、じつのところ、父と息子の物語であるのかもしれない。


 
 

『ワイルドライフ』を『ウィーアーリトルゾンビーズ』と比べてしまった

 ポール・ダノの初監督作品『ワイルドライフ』。
 ポール・ダノは、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』、『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』、『グランドフィナーレ』と観ているけれど、どれもすばらしく、その人の初監督作品というのだから、それは見逃せない。
 しかも、ジェィク・ギレンホール。
 ジェイク・ギレンホールの『ボストンストロング』は去年観た映画の中でもかなり好きな映画。個人的にはいちばん好きと言ってもいいかも。その前の年の『ノクターナル・アニマルズ』もすごくよかった。
 でも、今回の主役は、その奥さんを演じたキャリー・マリガンなのかもしれない。あるいは、山火事が主役なのかな。
 舞台は1960年のモンタナ。30代の夫婦とティーンエイジャーの息子が越してくる。でも、引っ越し早々に、お父さんが失業しちゃう。しかも、このお父さんは、せっかくの復職のチャンスを蹴って、ほとんどボランティア同然の山火事鎮火の仕事にでかけてしまう。
 実のところ、この父親の心理がうまく描かれているかというと、それはわからない。モンタナの空を煙が覆うという、山火事の迫力がうまく映像化できていないってことはあるかもしれない。
 ともかく、奥さんと子供が見知らぬ土地で収入もなく放置されることになる。1960年の30代は、今の30代とは意味が違う。キャリー・マリガンの演じる奥さんは、専業主婦という役割を突然失い、30代の一人の女になってしまう。見知らぬ土地でひとりの女として放り出された母親の迷走を十代の息子が見続ける。
 だんだんあやしい魅力を漂わせ始めるこのキャリー・マリガンは、どこかで観たなと記憶をたどってみると、『だれかの木琴』のときの常盤貴子を思い出させる。あのときの常盤貴子もすばらしかった。
 この映画は、ある日突然、父親と母親が、同時に、父と母という役割を放棄してしまうのを、なすすべもなく見守っている息子の視点で描かれている。『千と千尋の物語』のように豚にはならないが、しかし、ほとんどそれと同じように、両親が子供じみてしまうという、謎のイニシエーションを強いられるティーンエイジャーの物語である。
 これは、だから、長久允監督の『ウィーアーリトルゾンビーズ』と対照的なんだと思う。あの時も書いたけど、『ウィーアーリトルゾンビーズ』は映像の新しさの一方で、親と子の世代間の葛藤がまったく描かれていない。
 映画が、それを描かなければならない、義務も約束事もたしかにないが、『ウィーアーリトルゾンビーズ』の弱さはそこにあると私には見えた。長久允監督の前作である『そうして私たちはプールに金魚を、』には、主人公たちがおばさんになった姿が、主人公の妄想にあらわれる。そして、そのおばさんは「でも、そこそこしあわせ」と告げる。
 現状に不満を抱えたまま年をとっても、そこにはそれなりの幸せがあるだろうという世界観が『ウィーアーリトルゾンビーズ』にも引き継がれていて、あの少年たちは、最後には結局、その世界観が支配していると期待される「フツー」の世界に戻っていく。
 もし、そういうフツーに流通している世界観に変更を強いようとしないなら、サブカルチャーにとどまるしかない。言い換えれば、日本の現状のカルチャーを徹底的に避けていることで、かえって日本の今を浮き上がらせているともいえて、その点で、とてもユニークなんだが、問題は、いまや、日本のカルチャー自身が、大きな変動のうねりの時期にあるということで、「フツー」の「そこそこ幸せ」なんて価値観が無批判に信じられる時代ではなくなっているのだ。
 なので、大人の世界の下降のベクトルが捉えられていないために(何しろ主人公4人の親が全員死んでいるのだから)、子供たちの魅力的な活躍がどこかうつろに見えてしまう。
 『ワイルドライフ』はその逆に、おとなたちの下降は魅力的に描かれている。でも、逆に、子供の上昇のほうは、あまり魅力的ではない。60年代という時代を考えると、このときの十代の未来は、暗くない、明るくない、いずれにせよ、観客にスリリングな思いを抱かせることはない。
 それでも、ここには、あるゆる時代に共通する、世代を超える葛藤が、特に、キャリー・マリガンの演じる母親の苦闘ぶりをとおして描かれる。その意味で、この映画を観終わって、つい『ウィーアーリトルゾンビーズ』を思い出してしまったのは、突飛かもしれないが、すくなくとも日本社会の世代間の断絶を思うと、カルチャーが揺らいでいるときに、今の若い世代は、これをどうやってしのいでいくのか、ここに待ち受けている苦難について暗い思いにならざるえなかったからである。
 国会前でデモをしていた「SEALDs」という若者たちがいたのだけど、これがダメだと思ったのは、小熊英二(野田政権の時の反原発デモではまさにアイコンでもあった)の『民主と愛国』に描かれているような60年代のデモのように世代を超えたうねりになっていかなかったからだ。
 よくくらべられる日本とドイツだが、60年代がその流れを変えたように思う。ドイツでは「お父さん、戦場で何をしたの」と親に尋ねる運動が起きた。これに対して、日本の若者は、辺見 庸が述懐していたが、自分の父親に戦争のことを訊くことは避けていた。60年代の若者たちの運動はたしかに真摯だったにちがいないが、自分たちの親に対して優しかった。実際には、戦場で人を殺したのは親たちだったにもかかわらず。であるならば、家の外にでて叫んでいることが如何に真摯であろうとも、生活の場においては、それはなかったことになるということである。
 であれば、60年代の若者たちも、21世紀のSEALDsも、変革を叫ぶのは子供の時だけで、実社会に出れば、既成の慣習にしたがうことを黙認しあっていることになる。
 それでは、カルチャーが更新されるはずがない。
 ポール・ダノのこの初監督作品は名優の初監督らしく、実に、渋い演出で見せる手堅い映画だと思う。が、惜しむらくは、モンタナの空を煙が覆う山火事の迫力がビジュアルの面で成功していないと思う。
 これに対して、長久允の『ウィーアーリトルゾンビーズ』は、斬新な手法でカラフルで音楽に満ちた挑戦的な映画だ。しかし、そこにあらわれている親子関係の在り方となると、こちらの方がむしろ保守的になってしまう。『ウィーアーリトルゾンビーズ』は、登場人物の親を全員殺すことによって、日本の家族の危機をたしかに表しているのだが、ただ、少年たちの「諦め」を残念に思うのだ。
 こうして考えてくると是枝裕和監督の『万引き家族』が考えに浮かぶ。あの少年はたしかに「親」を越えていく。そして、あの「親」は確かに子供たちを巣立たせる。是枝裕和監督のその問題意識がやはり一段高いところにあった。
 登戸の事件もそうだけれど、家族が解体した社会の弱さを、日本人は今ひしひしと感じているのではないか。子と親の葛藤が言語ではなく、最後には暴力にしかならないなんて。その社会はやはり異常なのである。
 子と親に葛藤がなく、子がいつの間にか親の世界観に収れんされていく社会は、子が親に従属しつづける社会ということで、それは、そのまま日米安保の反映でもある。
 であれば、安保反対に端を発した日本の学生運動が、これを親子の関係とリンクさせなかったのはやはり欺瞞だった。政府とアメリカを批判しながら、自分は安全な場所にいたのである。その欺瞞の帰結が天皇の戦争責任論だろう。日本を戦争へと引きずり込んだのは、明確に軍部、なかんずく陸軍だったにもかかわらず、辻正信など、最大の戦犯と言っていい人物が戦後は平気で政治家をしていたのである。だとすれば、「天皇の戦争責任」という欺瞞に、いまだに固執する戦後リベラルが、力を失うのは当然の帰結であるように思う。

なぞなぞ「選挙前に増税に合意している野党ってなーんだ?」

 れいわ新選組が躍進すると思う。現政権と「富の再分配」について明確な対立軸をたてることに成功したから。細かいことはどうでもいい。
 悲惨なのは、立憲民主党と国民民主党という旧民主党系の政党で、彼らは、消費税増税について自公両党と「三党合意」している。しかも、彼らが政権を担当しているときに合意している。
 「選挙前に増税について合意している野党」、こんなみじめな存在はない。誰が投票します?、そんなほとんど道化に。ただの噛ませ犬だよ。
 なので、れいわ新選組が躍進しても、旧民主党が大きく減らすだけで、自公政権に大した影響はでない。これは、選挙民にとっても悲惨なんだが、それはしかたがない。今後、「旧民主党みたいじゃなく、ちゃんと公約を守る、ぶれない野党」がそだってもらうために、今回は、仕方がない。
 ただ、一番の敗者となるのはマスコミなんだろうと思う。選挙報道で知らんぷりした政党が躍進したとなれば、今後、マスコミのする政治報道に、いったい誰が信用をおきます?。
 その意味で、今度の選挙でとどめを刺されるのは、マスコミなのかもしれないです。