松方コレクション展、モダン・ウーマン―フィンランド美術を彩った女性芸術家たち

 この原田マハの小説は、松方コレクションの顛末を題材にしたものだそうである。
 
 国立西洋美術館、開館60周年記念の「松方コレクション展」を観たのであるが、あたりまえなんだけど、この国立西洋美術館マトリックスが松方コレクションなので、ふだん、ここの常設展で見慣れている絵がほとんど。
 でも、普段、常設展にある時は、撮影可で、実際、過去に撮影したことのある絵もいっぱい。なのに、特別展になると、撮影不可になっているのが、面白かった。
 そりゃ、事情は分かる。常設展は、人が少ないので、撮影しても、あまり迷惑にならない。のと、今回の特別展の出品は、ほとんど常設展といいつつ、すべてが国立西洋美術館の所蔵品ではないので、個人のコレクターの所蔵品とか、他の美術館のとか、ものによっては、撮影が許可されていない場合があるので、特別展では撮影はご遠慮くださいっていうのもわかる。
 松方コレクションについては、散逸はしかたないとして、1939年10月のロンドンのパンテクニカン倉庫の火災で焼失した作品が千点にも及ぶというのがなんとも残念。なかでも、松方幸次郎と親交の深かったフランク・ブラングィンの作品は450点も焼けたそうで、この知らせを聞いたときのブラングィンを思うといたましい。
 国立西洋美術館の常設展としてみる時と、松方コレクション展としてみる時では、みえ方が違うってのは当然で、でなきゃ、キュレーションに意味なんてないことになる。そうでなくて、個人的な体験からしても、同じ絵でも、いたく感動するときと、すどおりするときがある。美の体験に絶対的な価値を求めようとするのがおこがましいのだ。

 国立西洋美術館では、また、「日本・フィンランド外交関係樹立100周年記念 モダン・ウーマン―フィンランド美術を彩った女性芸術家たち」という展覧会も開催中。
 フィンランドの女流画家といえば、ムーミンの作家である、トーベ・ヤンソンが有名だが、そのほかにも、本国では、トーベ・ヤンソンよりも親しまれているというヘレン・シャルフベックの展覧会は、2015年に東京芸術大学大学美術館で観た。


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≪ロマの女≫ ヘレン・シャルフベック

 そのときは、この絵がすばらしかった。今回はこの絵は来ていないけれど、2015年のときにも展示されていた

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≪恢復期≫ ヘレン・シャルフベック
 
 この絵を晩年に再解釈した絵というのがあった。

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≪恢復期≫ ヘレン・シャルフベック

 画家晩年のセルフリメイクというと、守りに入って、セルフコピーに陥るケースもあると思うのだけれど、これは、ずいぶん攻めている。

 1882年の≪ダンスシューズ≫を、1938年にセルフリメイクした≪シルクの靴≫という絵は、今回の展覧会のポスターに使われていた。

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≪シルクの靴≫ ヘレン・シャルフベック

 それから、この展覧会は写真撮影が許可されているので盛大に撮ってきた。

19.7.6上野 - knockeye's fotolife

 ヘレン・シャルフベックの先ほどの≪恢復期≫のセルフリメイクは

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≪木こり 1≫ ヘレン・シャルフベック

この≪木こり 1≫からの自然な発展だと思う。

 ヘレン・シャルフベックのほかにも、エレン・テスレフの風景画

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トスカーナの風景≫ エレン・テスレフ 1908

とか

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≪ヤマナラシ≫ エレン・テスレフ 1893

エルガ・セーセマンの

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≪通り≫ エルガ・セーセマン 1945

とか

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≪モデル≫ シーグリッド・ショーマン 1958

マリア・ヴィークは、パリでヘレン・シャルフベックとアトリエを共有していたそうである。

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≪アトリエにて≫ マリア・ヴィーク

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ポーランド女性≫ マリア・ヴィーク

 この一心に絵を描く女性像は、なにかしら心に残る。ヘレン・シャルフベックやマリア・ヴィークがいたころのパリでは、国立美術学校であるエコール・デ・ボザールは女性に門を閉ざしていたが、アカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシは、女子学生を積極的に受け入れていたそうだ。

 フィンランドの美術教育の現場では

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アテネウム内、フィンランド芸術協会の素描学校の生徒たち≫ ヘルシンキ、1897-1898ごろ

こんなぐあいに男女共学だったが、フランスのアカデミーでは、男女が別のアトリエなので、男性は女性のヌードモデル、女性は男性のヌードモデルを描くことができた。


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スケッチブック マリア・ヴィーク

 この女性画家のスケッチに、瞬間の表情に現れるプライドを、マリア・ヴィークは描きとめた。

 それから、国立西洋美術館で松方コレクション展を観た後は、ぜひとも、東京国立博物館も訪ねて見られるとよいと思う。国立西洋美術館との連携企画で、松方コレクションの浮世絵版画が展示されている。

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≪台所美人≫喜多川歌麿

「民主党の枝野さん」について

 ふつう、増税を明言している政権が選挙に勝つなんてことはあり得ない。追い風参考で野党の圧勝になるはずなのである。
 ところが、れいわ新選組共産党は勢いづいていると感じるが、旧民主党の候補者は何やらさえないように感じる。

 というのは、ゆわれないことではなくて、今度の消費税10%は、民主党の野田政権が決定したことで、それを安倍政権が2度にわたって延期していたというだけのことなのである。
 そのへんのこと、一般国民が憶えていないと思ってるなら、それはバカにしてるのだし、思い出させまいとしているなら、不誠実なのである。
 消費税10%は、旧民主党の決定なのである。

 そこで、出てきたのが今回の「民主党の枝野さん」騒動。

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 安倍首相が選挙演説で、枝野幸男のことを「民主党の枝野さん」というのが、「選挙妨害だ」と、旧民主党員が息巻いているらしい。安倍首相が「民主党の枝野さん」を連発すると、選挙に行く人が立憲民主党と国民民主党とこんがらがっちゃうって言ってる。バカにしてんのか。
 前にも書いたけど、民主党は戦後最大の得票率で大勝したんですよ。その「民主党の枝野さん」と言われて何を怒ってるのか?。民主党に投票した国民の身にもなってくれよ。それでは訊くけれど、立憲民主党の枝野さんは、民主党の枝野さんとは別人なのか?。民主党の枝野さんがあの時言ったことややったことには責任を持たないということか?。
 このひとたち、今度選挙に勝ったらいったい何やるんだ?。

令和初の七夕

 七夕だというのに、カーディガンを羽織らないといけない。小ぬか雨の一日でした。
 このところの冷夏ぎみの肌寒さについて、「『令和』っていう元号のせいじゃないかな」と、無意識に思っている日本人な自分に気づいて面白い。もちろん、そんなことはないんだけどね。

「遊びの流儀 遊楽図の系譜」 サントリー美術館 おススメの展覧会

 キム・カーダシアンが、補正下着のブランドに「KIMONO」とつけようとしたら、なんか言いがかりまがいの抗議が舞い込んだとかで、幸先悪いし、薄気味悪いしで、撤回したという。
 しかしながら、日本の和服を「kimono」というのは、そそもそもが英語圏の誤用なのだ。着物は「着るもの」を総称する一般名詞にすぎない。
 洋服も和服も着物なんだけど、洋服が着物でないかのような気がするのは、昔は、和服が「フツー」だったので、「フツー」じゃなかった洋服は別称されたから。
 「特別」だった洋服の方がいまはフツーになり、「フツー」だからこそ、ただ「着物」と呼んでいた和服がいまは特別な装いになり、「着物」という言葉にも「おめかし」といったニュアンスがついてきたのだが、いずれにせよ、言葉としての「着物」はやはり普通名詞にすぎない。それを固有の文化のようにいうのはどうかな。欺瞞だと思うし、そして、何よりキナくさい。
 Tシャツもジーパンも着物だし、下着(襦袢)ももちろん着物だから、キム・カーダシアンの方が言葉の使い方としてはむしろ正しい。「よそいきの和服」という意味の言葉としては「呉服」が由緒正しい。
 「呉」は三国志に出てくるあの「呉」でしょ。つまり、もし、キム・カーダシアンの「kimono」が日本文化の盗用なら、日本の「呉服」は中国文化の剽窃なわけ。日本の呉服を呉の人が着てたわけないし。日本人が勝手に「呉」服と名付けたのである。
 しかし、それで中国人が抗議したとは聞いたことがない。なんだろうね、この日本独特の「かわいそうな感じ」は。

 サントリー美術館で「遊びの流儀 遊楽図の系譜」という、魅力的な展覧会が始まっている。途中で四回も細かく展示替えをするみたい。先週末は、はじめての週末ということで(かどうか知らないが)、着物を召したご婦人方がたくさんいた。そして、


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≪邸内遊楽図屏風≫

こんな絵を観ながら、「ゆったり着てるね」とか話しているのが聞こえた。
 それはですね、奥さんがた、今と昔では反物の幅が違うのですよ。安土桃山時代、小袖と言われていたころの反物の幅は今よりずっと広かった。したがって、この絵のようにしどけない姿でいても裾が割れたりしなかったのです。
 というより、当然ながら、自由に動いても、裾が割れないような反物の幅になっていたわけです。それが徳川時代に、度重なる倹約令で、反物の幅が短くなっていった。その結果として、今でいう「正座(ちなみにこの言葉は江戸時代にはなかった。「端座」といったようです)」などという拷問みたいな座り方をしなければならなくなった。江戸末期の浮世絵なんかをみると、町娘の裾からふくらはぎがちらちら見えるのが色っぽいなんてことになるみたいですが、それは倒錯というものです。
 ですから、この絵の人物たちが、ゆったり着ているのではなく、あなたたちが窮屈に着ているにすぎないのです。話は逆なのですよ、奥様方。詳しくはこちら。

日本人の坐り方 (集英社新書)

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 それはともかく、簡単な線でさらりと描いたようでいながら、この人物たちは、着物の中の肉体が感じられるほど生き生きとしている。着物を着る生活が身体感覚の深いところまで根付いていたことがよくわかる。

 特に、この縁側のふたり。

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《邸内遊楽図屏風》部分

 この線の確かさは、「文化」などというあやしげなものの対極にいませんか。
 ちなみに、「しどけない」と書きましたが、

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≪邸内遊楽図屏風≫部分

立膝は江戸初期までは礼法にかなった座り方でした。
 邸内遊楽図、花下遊楽図、婦女遊楽図、など、当時の名もなき人たちを描いた、artist unknownな画家たちの絵を観ていると、今の私たちの窮屈さを思い知らされる。
 とくに、面白かったのは、≪婦女遊楽図屏風≫で、ふたりほどの幇間さんをのぞいて、登場する全員がなぜか女性。そのうちの少なくとも二組は、寄り添う相方の胸元に手を忍び込ませているのを、私は見逃しませんでした。

 そして、印象的だったのは、こうした遊楽図のそこかしこで

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輪になって踊る人たちが、画面のアクセントになっていること。

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≪輪舞図屏風≫部分

 ここに貼り付けてあるイメージはすべて屏風の一部分である。このほかの場所では、喧嘩をする人、水遊びする人、風呂上がりの人、料理に舌鼓をうつひと、双六に興ずる人たちがいる。

 この展覧会の特徴のひとつは、ほぼすべての絵の作家が誰であるか分からないことだ。ルキノ・ヴィスコンティの晩年の映画に『家族の肖像』がある。タイトルの「家族の肖像」とは、18世紀のイギリスで流行した、家族全員を描いた絵のことで、英語の原題の「conversation piece」は、直訳すると「話のキッカケ」みたいな意味だが、イギリスでは、家族の絵をそう呼んだそうだ。アートとしてどうこうということではなく、これを見ながら会話をはずませたことだろうと思う。

 今回の展覧会には、何かそれに通じるものを感じた。現に、絵を見ながら話している人も多かった。屏風に小さく描きこまれている、あれやこれやを見つける楽しみがあって、見つけるとつい声に出してしまう。わたしも、座敷の猿回しを見つけて、「あ、猿だ」と声に出してしまったが、隣の見知らぬ女性が、単眼鏡を覗きながら「猿ですね」と応じてくれた。まさにconversation pieceになったわけである。

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世の中を渡りくらべて今ぞ知る 阿波の鳴門は波風もなし

 映画がらみの話を付け加えると、衣笠貞之助の『地獄門』に出てくる「競べ馬」の場面そのもののような屏風もありました。これを参考にしたのかもしれません。

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アスガー・ファルハディの『誰もがそれを知っている』観ました

 前作『セールスマン』、前々作『別離』が、続けてアカデミー外国語映画賞を受賞したアスガー・ファルハディ監督の最新作。
 今回の『誰もがそれを知っている』は、ハビエル・バルデムペネロペ・クルスのスペイン出身のアカデミー受賞者ふたりに加えて、アルゼンチン映画として初のアカデミー外国語映画賞に輝いた『瞳の中の秘密』で主演したリカルド・ダリン。
 と、こうスターをそろえると、イランの役者さんたちを使ってた時と、演出の勝手がちがうのではないかしらむ、と、危ぶむのも無理はないわけだが、そこで、微動だにしないのは、やっぱそれでこそ巨匠なのだった。
 スペインの小さな村が舞台になっているのもよいのかもしれない。パコ(ハビエル・バルデム)が営んでいるぶどう農園が、ある意味では、隠れた主役だとおもえたほどだ。ストーリー展開にともなって、畑の姿がうつろっていく、その感じは、イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』のブライヅヘッドとか、北杜夫の『楡家の人々』の楡病院とか、じつは、登場人物よりも、それらの人々が集い去っていく、土地の地霊が主人公ではないかと思わせるような、すぐれた小説のあじわいにけっして引けを取らないと思う。
 そして、家族。家族という概念がほぼ消滅してしまった国で暮らしていると、家族の概念が現に生きているらしいラテン社会が、そのよしあしにかかわりなく、痛みを伴うほどのなつかしさを感じさせる。
 「誰もがそれを知っている」というタイトルは、原題の直訳らしい。よくできたタイトルだと思う。「誰も」というのが、不特定多数の「誰も」ではないのだ。たとえば、「村の誰も」だったり、「家族の誰も」だったり、通りすがりの旅人が、たまたまこの村に立ち寄った時、この事件に居合わせたとすれば、あるいは、新聞の三面記事にすらならない、ありふれた事件なのかもしれなかった。
 しかし、「誰も」が知っている。その旅人以外の誰もが知っている。家族だから、隣人だから、知っている。それは、知識でも教養でもなく、もしかしたら、事実ですらないかもしれないが、しかし、知っている。だから、居合わせた旅人には見えないところで、物語が動いている。その感じがすごくうまかった。
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「その結末に誰もが息をのむ、極上のヒューマンサスペンス」、あいかわらず、萎える感じのキャッチコピー。ペーパーバックの推理小説みたいだが、そうじゃない。
 それをいうと、『別離』も『セールスマン』も推理ドラマの要素はあった。あの二作品のどちらかを観ていただいた方には説明しやすい。たしかに、犯罪が描かれているが、テーマは謎解きじゃない。だから「その結末に誰もが息をのむ」はウソ。もっと、ずっしりと、観終わった後に余韻を残すラストだ。
 パコ(ハピエル・バルデム)とベア(バルバラ・レニー・ホルギン)、ラウラ(ペネロペ・クルス)とアレハンドロ(リカルド・ダリン)の二組の夫婦の関係が、シーンごとに、微妙に揺らいでいく。スペインの小さな村の家族なのに、まるで『ゴッドファーザー』のコルレオーネ一家の物語を見ているような気になる、重厚で陰影に満ちた映画だった。
 このアスガー・ファルハディも、また、ジャハール・パナヒや、亡くなったが、アッパス・キアロスタミも、こうした優れた映画監督のためにも、アメリカとイランが和解したことを喜んでいたが、トランプ政権になって話がこじれているのが残念だ。
 イランは、もとはといえば、ペルシャなので、その文明は、イスラム教の歴史よりはるかに古い。文明が宗教より先に発達した土地では、原理主義は長続きしないと思う。
 さいきん、トランプ大統領は、ボルトンを胡散臭いと思い始めているみたいで、北朝鮮を独断で訪ねたのもそういう背景があるかもしれない。
 
www.news24.jp
 
 空爆撤回後にこういうことを言っているので、何とか、元のさやに戻ればいいなと思う。

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「反社会勢力は見たらわかる」と言ってるバカ

 カラテカ入江が直の営業やったら、相手が詐欺師集団だったっていうあの問題について
「反社会勢力の人は見ればわかる」というたぐいの言説がにょきにょき生えてるのだが、それは、見た目で人を判断しろって言ってるのと同じだから。
 そもそも、人は見た目で分からないから、詐欺が成立するんですけど。
 「お金を受け取ったのは、詐欺の被害者に対して、申し訳が立たない」
みたいなことを言ってますが、
「見た目で分かるだろっ!」って、そのことば、詐欺の被害者に一番こたえるんですけど、気がつきません?。

「反社会勢力は見た目で分かる」って言ってるのは、「詐欺に引っかかったのは被害者が悪い」って言ってるのと同じなんですよ。
 くりかえしになりますが、直の営業なんて、やって悪いことでもないし、みんなやってるし、さんまさんも「入江にたのまれたら行った」と言ってるし、行ったらカネを受け取らないわけにいかないし、反社会勢力かどうかなんてわかるはずもない。
 なので、今回の問題は、吉本の社長の経営判断のミスなんであって、辞めるべきなのは入江じゃなくて、吉本の社長。社長の代わりはいくらでもいるけど、売れっ子タレントの代わりはそうそういないよ。正しい経営判断できる人いないのかな、吉本には。

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大阪G20の見せ場はここだったか

 トランプって人はやっぱり頭がいいんだわ。飯島勲が「大阪G20はみものだぜ」と言っていたが、ホントにみものになった。
 大阪G20のついでに北朝鮮を電撃訪問した。その一方で、日米安保の廃棄を公言した。
 つまり、北朝鮮が核を開発しようが、アメリカ本土までとどく長距離ミサイル開発を凍結すればもういいわっていう取引が成立するために、沖縄の米軍を撤退させようということ。
 米軍が沖縄から引いちゃえば、短距離の核ミサイルはあろうがなかろうが、アメリカには関係ない。北朝鮮も在韓米軍に向けて核ミサイルを打つはずはないからね。
 日本としても、日米安保解消は悪い話じゃない。ロシアと平和条約の交渉をすすめやすい。沖縄の基地問題は自動的に解決する。中国はこれから人口が減っていくので周辺国家と宥和せざるえない。韓国は今まで通り放置して何の問題もない。というか、放置するしかない。北朝鮮は韓国に取り込まれたくないなら、日本との関係改善に拒絶反応は示さないだろう。というか、日本というカードを一応キープするだろう。日本は北朝鮮と、韓国とは別に、平和条約を締結すればよい。韓国の失敗例をいかせるだろっ?、優秀な外交官僚ばかりなはずだから、有効な金の使い方ができるだろ?。
 と、まあ、トランプは、あくまでアメリカ・ファーストの前提でだけれども考えているだろう。 
 それで、日米安保はこれを機に解消しちゃっていいのだ。ほんとは、鳩山由紀夫がそれをやるべきだったし、それをやっていれば、民主党という政党が消えてなくなったりはしなかったのだ。

www3.nhk.or.jp