犬儒派

knockeye2004-06-10

「シニカル」の語源は、「犬儒派」である。私が在籍していた大学の教授は、「なんで『犬儒派』→『冷笑的』なのか分からない」と言っていたが、残念ながら私は、感覚的に理解できてしまった。私は、普段、非常にへりくだった人間である。何はともあれ、自己を卑下している。こういう事を犬儒的だとすると、それはやっぱり世界全体を見くびってもいるわけだ。へりくだるのは、身に付いた習慣みたいなものだが、時々自分でいやになることもある。仏教では、単純に「卑下慢」という言葉もある。


芥川龍之介の『侏儒の言葉』に


もし游泳(ゆうえい)を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに駈(か)けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦(ばか)げた命令を負わされているのも同じことである。  我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論(もちろん)游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。


とある。彼は、80年代の村上春樹みたいに、大正時代の若者に熱狂的に受け入れられた。でも、「生まれる前に生き方を教えてくれなかった」と言われても、ちょっと困る。生まれてから学んでも十分間に合うんじゃないだろうか?こういうのが受けたと思うと面白い。急速な近代化で父性が機能しなくなった傍証と見える。正直言って、スポイルド キッドの一人として、ひそかに共感している。


このところ、インターネットラジオに、ハマっている。笑福亭鶴瓶『立つラジオ』。ちょっと前まで『すわるラジオ』と言っていたのに、いつの間にか変わっていた。「すわる・・・」のころも面白かったけど、今のこれは、放送中に噺家に電話するのが面白い。落語が好きなので、いろんな噺家の生態が知られて楽しい。中でも桂吉朝は、やっぱりかなりの変わり者のようだ。なかなか捕まらない。先週は嫁はんが電話にでていたが、嫁はんもどこにいるか知らへんみたい。馬場章夫が週一になったのが悲しい。