テントのラジオ

knockeye2004-08-13

ブラジルから来た娘タイナ 十五歳の自分探し
今回の旅では、ラジオを忘れなかった。携帯テレビをもってったころもあったが、今回はラジオにした。テレビはテレビで面白い。ローカル局のCMやニュースは独特だし、天気予報もわかりやすい。でも、受信しにくいんだよね、結局。

今回は、テントの中でUAのサウンドストリートを聞いていた。小貫大輔という人がゲストで、シュタイナー教育について。この話が、なぜ、びびっと来たかというと、「自分探し」というテーマで話し始めたから。高遠菜穂子さんの本に対する批判の中で、この言葉が使われていた。言葉自体は奇妙だが、同じ言葉がたまたま聞こえてくるのは偶然ではない気がする。

話はそれるけれど、その時ついでに書いた横山大観の悪口について、フォローしておきたい。あの「無我」という絵だが、そもそも「無我」なんて画題自体が、ベタ。センスが疑われる。たとえば、新渡戸稲造の「武士道」とか。そこまで、大上段に振りかぶってもらいたくない。しかも、その「無我」が、ガキが突っ立てるだけとは。そりゃ確かに、こどもは自我が確立されていない。噺家の言葉を借りれば、「こどもは罪がないなぁ」というヤツである。だけど、それを無我と名付ける意味がどこにあるのか?

推測するに、急速に入ってくる西洋文明に対して、日本独自の文化を主張したかったのだろうが、主張するほどには内容がなかったのだろう。廃仏毀釈を待つまでもなく、徳川の檀家制度で仏教は形骸化し、衰退していたのではないだろうか?
キリスト教世界の近代的自我に違和感を覚えながらも、儒仏に立脚した自己を主張できなかったのだろう。近代的自我は、後に深刻な状況に陥ることになるが、その時、東洋を再発見したのは、むしろユングなどの西洋人だった気がする。


で、UAのサウンドストリートなのだが、ゲストに来ていた小貫さん、ブラジルでしばらく海外協力事業に尽力されて、日本に帰ってきたら、自分の娘が、不登校になってしまった。それで、よくよく調べてみると日本の教育は、とんでもないことになっているらしいことが分かった。娘さんは結局ブラジルに帰っていった。娘さんは「日本人は誰も自分らしくしていない。自分らしくしていなくては、友達は出来ない。」この言葉は印象的だった。
以前に書いたが、私の十代の頃は「いじめ」は、まだ、名詞ではなかった。「いじめる」という動詞の連用形に過ぎなかった。それが、今では名詞として定着している。現代の日本文化を象徴する言葉と思っていいのではないか?
たとえば、平安時代の日本を象徴する「もののあはれ」という言葉は、もとは「ものをあはれむ」とか、「ものにあはれむ」とかの動詞だったのではないかと思う。それが、名詞化して定着する。文化の美しさが忍ばれる。
ところが、現代は「いじめ」。いま、日本の中学生の1割は不登校だそうだ。公式の数字だから、実際にはもっと多いはずだ。ブラジルのエイズより深刻らしい。全然知らなかった。そして、自殺者は3万人。

いじめ社会で勝者となるのは、何を意味しているだろうか?前にも書いたが、勝ち負けを決めているのは、常にルールである。このいじめ社会の勝ち負けにもルールがあるはずだ。何を持って「勝ち」としているのだろうか?推論だが、高遠さんの時の報道のありようなどを見ると、「人と同じ」であることではないかと思えてきた。「人と同じ」であれば、「勝ち」なのである。逆に「人様とちがう」と敗者になりいじめられる。これが、いじめ社会のルールである気がする。

本の学校では、髪型、服装、音楽、恋愛、すべてが規制されている。すべてのこどもが均質になるように。それだけが、願いであるようだ。いじめは、本来、自己を確立しなければならない時期に、完全に均質な枷をはめられたこどもたちの、自己確立もどきじゃないのか?つまり、自己が確立できない代わりに、均質であることを確認しようとしている。異質なものをいじめること以外には、自己を確認する手だてがないのだろう。